しぐさが恥ずかしい。年齢にふるまいをむすびつけてしまう呪いの言語「いい歳をして」は、わたしのきらいな言葉のひとつだが、日々両親の幼児的な行動を目にしていると、冒頭の「しぐさが恥ずかしい」というきもちがこみあげてくる。べつにだれが何をしていたっていいし、だれしもがそう考えている世のなかのほうがずいぶんと生きやすいはずだが、どうしてもこの恥の感情に足をとられてしまう。めんどうだ。このめんどうさが、文学になる。
D2021という配信をぼんやりと聴いていた。コメント欄にいる「差別も多様性」論者にイライラする。「民主主義=多数決」という彼の素朴な認識も、それに対する周りの非難も、そんなやりとりをいちいち見てしまう自分にも腹が立つ。げんじつの虚しさを、こんな場所で発散させてしまう構造自体をくつがえす必要がある。
髭を刈り、シャワー浴びてもどるとmoment joonがライブをしており、ちゃんと観る。こういう言葉が、音楽が、「とどかないこと」のぜつぼうの前で。ライブを観ずにただひたすらプロパガンダコメントをコピペ投下しているおばあちゃんのすがたを見ているつらさ。こうしたひととコミュニケーションをとることの不可能性。あたまがおかしくなりそうになる。ライブを聴きながらテキストを書く。最後のGotch×Moment Joon×坂本龍一、ヤバのヤバだった。
映画本編を観ずに、映画の要約動画を見ているひとは何がたのしくて映画を観ているのだろう。映画を情報の束としてしかとらえていないのだろうか。かなしくなってくる。わたしの父親の話である。
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昨日のブログで触れた岡田利規のWS映像を観た。1-3まで。おもしろい。まず何かをやり、そのやったものを踏まえてまた新たな何かをやるというプロセスのありかた。それは確立したコンセプトがあるがゆえにやれることであって、強固な方法論のつよさをまず思った。もののサイズをとらえる男性の俳優と、動作をとらえる女性の俳優のちがいも興味深い。ひとはどのように場所やものごとを思いだし、いかにそれを話すのか。くりかえし同じ場所のことを想像して話すという行為自体のおもしろさもあって、いわゆる「劇的なこと」が起こっているわけでもないのにずいぶんとひきこまれてしまった。
納豆たまごごはんを食べ、プリキュアを観、キュアコーラルのかわいさを目に焼きつけて寝る。