一揆

早寝のおかげで今朝も早起き。ザンボットを観ながら食事をし、ゴミをだしたりブログを書いたりチェンソーマンを9巻から11巻まで読んだりします。しばらくしてから松林要樹『相馬看花』を観ます。すばらしい。こないだ観たドキュメンタリーがしょっぱいウンコだったので、どうなることやらと観はじめたのですが、地震直後、というよりもまだゆれのおさまっていない世田谷の自室を映したファーストカットからしてサイコーでした。すぐれたドキュメンタリスト≒映像作家は、何かが起きた際にすぐにカメラをかまえるのだと納得させられます。そして、その後画面で展開されていくシーンの数々が、そのことを裏づけてくれます。

まず「そうだよね」と思ったのは「主役」の発見です。これは、せんじつ観た『friends after 3.11 劇場版』に足りなかったもののひとつでもあるでしょう。南相馬市の市議会議員である田中京子さんという「人物」の発見が、映画を映画として成立させるおおきな柱になっていました。劇映画だけではなく、ドキュメンタリー映画においても、そこに映るひとびとは作品の「登場人物」なのです。放射能の影響で避難勧告がだされているにも関わらず、住み慣れた自宅に留まりつづける老夫婦(「酒が飲めないのがつらい」とわらいながら避難区域生活における唯一の苦難を語る夫は、かつて原発の安全管理責任者の職についていました)や、原発設置時に市議をしていた老夫を含む、避難所の訛りになまったじさまばさまたちなど、とにかく魅力的なひとたちがこの映画には映しとられています。ドキュメンタリー映画としては、それだけでもう勝ったようなものです。

そうした人物の魅力だけではなく、ここには抜かりなく「出来事」もおさめられています。田中さんの自宅は原発20km圏内にあり、そこはすでに避難区域としてもぬけの殻になっています。そんな瓦礫と放射能がみたした土地を見回りのために歩いている彼女についてカメラをまわしていると、近隣の家々の窓が故意に割られ、火事場泥棒が多発していることが発覚します。あるいは、破壊されつくして何も残っていない風景を指しながら「おれの家」と気丈にわらうおばあちゃんが、自らの職場の惨状を目の当たりにして顔つきが一変するカット。これらの「決定的瞬間」が本作には数多く記録されています。こうした「出来事」を映画のなかに刻印するのがドキュメンタリストの本懐です。パトリシオ・グスマン『チリの闘い』における大統領官邸への爆撃、原一男『極私的エロス 恋歌1974』における自力出産シーンなど、数々の歴史的なドキュメンタリーがそのことを証明しています。

こうした「出来事」は、ただ目の前にあらわれるものを撮っているだけでは記録できません。監督とともに福島へやってきた写真家が、先の老夫婦のツーショット写真を自宅を背景にして撮ろうとカメラを構えたとき、本作の監督はその背後の窓から見える原発の鉄塔を見逃さずにフレームのなかにおさめます。そうしたゆるぎない映像作家としてのするどい姿勢が、映画の随所にかがやきを生みだしているのです。途中、都内の反原発デモの映像がはさまれる箇所があります。そこには福島の光景との温度差がはっきりと映しだされており、一見浮いたシーンととらえることもできますが、観る者にひと目でズレを感じさせる、すぐれた構成ともいえるでしょう。

姿勢ということでいえば、自らも避難所で被災者たちと生活をともにするという深入りのしかたも感銘を受けました。下手すれば「外からやってきた身分で物資をもらって避難所で暮らしているなど!」と非難の声も挙がるのかもしれませんが、映画を観るかぎり、本作において撮影者と被写体のあいだにはたしかな関係性がむすばれているように思いますし、そうした生活があってこそ、この「記録」が後年に残されるわけですから、わたしはその非難はあたらないと思います(そもそも監督は東京から物資を軽トラに積んで福島にやってくるのです)。「親戚のような付き合いになった」というテロップが途中あらわれますが、それは誇張ではなく、その通りなのでしょう。

本作に関連しておどろいたのは、監督である松林要樹が、かつて2014年の3.11映画祭で鑑賞して「これはどうなの?」となった森達也ら映画監督4人によるドキュメンタリー『311』の共同監督のひとりだったということです。こんな作品を撮ることができるのに、どうしてあんな駄作を撮ってしまった、あるいはそこに名前をつらねてしまったのでしょうか。当時の感想がついったにあったので引用してみます。

311観た。この映画には何らかの問題意識もなければ、ひとつにまとめようという試みもない。眼前にあらわれる映像はつねに震災直後の混沌をそのまま提示することのみに終始する。ゆえに拙さや軽さが露呈し、観客には不快な感情が宿る。だが、映画を観る我々とカメラを回す4人と何が違うというのか?

ついーと自体はそこまで非難めいた言葉ではなく、むしろそこに映っている不快な撮影者たちと観客は共犯関係にあるということに重点が置かれています。それはそれで大事な問題ですが、それに触れるのはまたべつの機会を待ちましょう。とにかく、『311』はわたしのなかでひどい作品としてつよく記憶されています。震災直後に観ていたらまた印象が変わったのかもしれませんが、少なくとも2014年に観て感銘を受けるような作品ではありませんでした。一方、今回観た『相馬看花』は、歴史の洗礼も堪えうるであろう強度を持ちあわせています。震災関連作としても、あるいは単純におもしろい映画としても、おすすめです。


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藤本タツキチェンソーマン』。まるでギャグのようなラブ-バトルの決着のつけかただと思いました。件のみひらきのあたりではわらいごえがでてくるのをおさえることができず、そんなんアリかよとわらいころげてしまいました。さいごまでおもしろく読みましたが、傑作かと問われるとどうでしょうか。青年誌での作品が読みたいなと思います。

お昼には夜に揚げる予定のとんかつ用の肉をつかってトンテキ丼をつくります。ちぎったキャベツもつけあわせにし、にんにく醤油と塩こしょうでいただきます。ベリうまし。肉自体がよい感じがしたので、夜のとんかつもたのしみです。もう一本映画を観ようかなと思っていたのですが、ねむたくなってしまってふとんにもどってぼんやりしていたのでした。入眠することはできず、とんかつのためのキャベツと、白米のじゅんびをしておきます。

夕飯までに、しばらく手の離れていたABMGシリーズにとりかかります。作品集のあたまがあるので、「見開き単位」のパースペクティブがはたらくのですが、そうするとどうも単独物としてしっくりこないので、ページネーションは無視して制作していくことになりました。冊子としての見せかたはあとまわしにして、まずは単体としてやりたいようにやるということです。そんな脳みそでとんかつも揚げてゆきます。ソースがないので自作します。醤油、ケチャップ、焼肉のたれ、ニンニクチューブを煮詰め、ごまを擦ったのと混ぜて完成です。正解の味がします。理想のとんかつにはほど遠いですが、おいしくできました。