おなじことばかりを何十年にもわたって喋りつづけて川に流される

きれいに洗ったアボカドの種を水を入れたグラスに浸け、発芽を待っていた。たまに水を替えながら、次第に実に亀裂が入っていくのを日に日にながめていた。ふと、ちかごろは様子を見ていないなと思いだし、そのことがこのことを書かせる要因となった。

読書の途中でうたた寝し、起きたあとはインターネットを徘徊していた。未来の徘徊老人はどこを歩きまわるのか。

2階にきたことで隣室でひとが寝ている状態となり、深夜に耳を澄ますと家族のいびきが聴こえる。ひとり暮らしをしているときの、やかましい隣人のことを思い浮かべる。よくみしったひとの立てる音と、よくしらないひとの立てる音とは、その波長が異なっている。

ろくでもなさに巻きこまれているひとを見たときに生まれる、なんでそんなものに足をとられてしまうのだろうというきもち。わたしみたいなひとがこの世にはいるじゃない、というきもち。慢心傲慢蔓延防止。

ひろがりがない。生身のひろがりがない。こっちに来てからフィクションの世界とだけつながっている感覚がある(けっしてそんなことはないのだけれども)。


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スコット・デリクソンフッテージ』(2013年)を観る。公開当時観逃しセレクション。マイケル・ギャラガー『スマイリー』やらフィリップ・リドリー『ハートレス』、オーレ・ボールダネル『ポゼッション』あたりが同時期に公開されていた気がする。さいきんはあんまり手をだしていなかった気がするが、こういうホラー映画も好きなのだった。

未解決事件を追うノンフィクションライターのエリソン(イーサン・ホーク)は、一家殺人事件の起こった家に妻とふたりの子供たちとともに引越し、かつてベストセラーを出版した過去の栄光を追い求めながら、ここらで一発ブチ当てようと取材・執筆を始める。その過程で、屋根裏に置かれたままだった箱を開けると、そこには無数のホームムービー=スナッフフィルムが何者かの手によって残されていたのだった……というようなストーリーラインで話は展開し、これがなかなかちゃんと「怖い」映画として成立していた。オープニングカットとしても使用されている、裏庭の木で並んで首を吊る一家の映像の不気味さをはじめ、話をすすめていく8mmフィルムという媒体の質感がよい具合にホラー度を高めており、なおかつそれを鑑賞する際の編集のテクニックも巧みだった。壁面に映しだされる映像、それを鑑賞する主人公のメガネへの映りこみ、凄惨さに思わず目を背けたその奥に投射されつづける映像、と観客に対して見せる/見せないを恣意的に演出しており、それがより恐怖を増幅させているのだ。殺人現場となった裏庭の大木が、食卓の背後にありつづけているのもこわい。つねに「何か」がそこにあるのである。

また、家の中をうごきまわる際の、「奥行き」を画面のなかにつくりだす画づくりも効果的だった。暗闇の開け放たれた扉や死角からいまにもなにものかが飛びだしてくるかもしれないと思わせることは、ホラー映画の定石である。それがきちんとていねいに描かれていて、緊張感の持続をつくっていた。主人公が恐怖に取り憑かれてアル中気味になっているという設定もいい。幻覚か、げんじつか、というレイヤーが増えることによって、ドラマはより複雑化し、魅力的なものとなる。

ということである程度たのしくは観たのだが、観ていて思ったのはアリ・アスター『ヘレディタリー』はほんとうによく出来ていたんだなあということだった。邪教的なモチーフが本作のなかでもあらわれるのだが、どうしてもそこに甘さが見えてしまうのだった。ヘレディタリーの場合は、もはやわらってしまうみたいな超展開が配されることによって、そこをうまく突破していた。ある種の「突き抜け」が、ロジックをもぶっ飛ばしてくれる好例だ。ジェームズ・ワンインシディアス』のこともぼんやりと思いだした。あれも好きな映画。3作目、4作目を観ていないのでいっそのこと通して観てみようかな。