朝6時台になってくるとさむい。VSOP放談の影響でごっつええ感じを見る。わらう。ゴミだしにいき、さみいなと布団にもぐったがさいご、眠りに落ちて夕方起床をかましていく。
ピーマンのバターポン酢おかか和え、にんじんのフェヌグリーク炒めonレタスサラダ、山椒風味の牛炒め。うまい。種類を数多くつくるとたのしい。つくりおきにしておくつもりだったのだが、平らげられてしまった。量の加減がむつかしい。
にどめのzoom打ち合わせ。おたがいいまだに手探り感があるように見えるのは、職能的な肩書きが邪魔をしているのではないかとおわったあとに思った。コミュニケーションを潤滑にするはずの肩書きが、不要なズレと摩擦をつくりだす。それと、今日はスマホから参加したのだが、画面がちいさすぎて反応がわからず、話したことの手応えが薄いというのもあった。これはメディア的な問題である。わたしが環境に不慣れなのも、その低反発ぶりに加担しているだろう。
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「編集」というしごとの成果、あるいは作例のみせかたがめちゃくちゃむつかしいというのもよくわかった。わたしの書いたテキストを見せてもそこで為されている「編集」はよくわからず(というか、そこでは編集者としてのわたしよりも書き手としてのわたしが出張っている)、かといってわたしが介入しただれかのテキストを見せたところでそこで起きた事象はよくわからない。aというテキストがa'というテキストになった、あるいはbというテキストになったという過程を見せなければ、どのような操作がそこで為されているのかがわからない。これがヴィジュアルであるのなら完成品だけでその接続や切断ぶりに編集の手つきを見ることができるが、今回はテキストなので、完成品を見てもわかるのはそのテキスト内における編集的な関係性にすぎない。それも「編集」行為の反映であるととらえることはまちがいではないのだが、それがよい作例になるのかと問われると軽々しくはうなずけない自分がいる。文章を書くことがうまいのと、編集するのがうまいこととは、その範囲にかぶる部分があるにせよ、べつの領域の問題だとわたしは思っているからだ。あるイメージに対して特定のワードを与えるという「名づけ」を、ひとまずひとつの「編集」の作用例として投げてみたのだが、もとのイメージ自体がまだ曖昧なままの状態では、それもまた水の上に絵の具を垂らすような行為であって、あるかたちを成したかと思えば、すぐに霧散してしまうのであった。
平野俊弘『冥王計画ゼオライマー』を観る。ぜんぶで4話しかないので展開がめちゃはやい。ものすごいスピードでキャラが掘り下げられていくと思ったら、そのまま死という谷底に到達してしまう速度感。バンバンひとが死んでいくなか、濃厚な設定を一気にたたみかけていく駆け抜けぶりがすごい。みじかな時間でドラマをつくること。壮大なことが起きているはずなのだが、あっさりしすぎていてわらってしまう。ときたまあらわれるぷるぷるふるえる作画の過剰ぶりがおもしろい。3話の美久変形シーンとかも急すぎてわらう。必殺技を叫ぶのはやっぱりアツい演出だなとワクワクして観ていた。ちょっとまぬけな行為ではあるのだけれども、お約束としてたのしい。書いていて演劇との関連性を思った。必殺技を叫ぶ行為は、チェルフィッチュ以前の演技としてある。