雑つ草花まみれ

サブスク配信の映画をテレビで観ていて思うのだが、フレームレートがイカれているのかうごきがなめらかすぎてきもちわるく感じてしまう。安っぽさがでてくるのもマイナスで、どうにかならないかとしらべたら、どうやらテレビの方の設定で調整ができるらしい。つぎ観るときに試してみよう。画も編集もほんとにクソだなと思ってしまった『追撃者』も、設定を変えたら多少はよく映るのかもしれない。

林田球ドロヘドロ』のおわりぎわ、つまりは22-23巻を読む。大団円! 餃子ラブ! 漫画熱の衰退が最終巻刊行間際と被っていて、雑誌で追ってるほどラブだったのにこの2巻だけを読まずにいままできてしまっていたのだった。ちょうどその頃IKKIもなくなってしまったしね。いまさら何をいうでもないけれど、めちゃくちゃおもしろい漫画だった。単行本として読むとちょっとドッタンバッタン感がでてくるのだが、さいごまで連載を追っていたらとってもたのしかっただろうなという話ごとの展開のドライヴがすごい。緊迫シーンでのおふざけぶりもいい。よりふざけに舵をきったという『大ダーク』もまだ追えるレベルのうちに買おうかねえ? そしてターキーのかわいさの衝撃よ。

ただ気になったのは台詞の説明過剰さで、近年のワンピースが批判されているのをなんどか目にしているが、ドロヘドロにも似たような印象を抱いた。状況の整理を川尻やニカイドウがていねいに台詞で説明したり、カイマンの「〜くらいの力しか残ってねぇ…」など自らの状態を言葉にしてしまうのは、やりすぎでは、みたいな。「わかりやすさ」に流れてしまうことに対して、わたしにはどうしても抵抗感がある。とはいっても、たとえばテレビの画面下部をつねに占有するテロップにしろ、内容説明のようなラノベのタイトルにしろ、時代は「読者」の負担を減らす方向につきすすんでいる。そうした表現が幅をきかせているのは、そのイージーなスタイルが受容者に受け入れられているからで、つまりはわれわれの読解力が落下の一途をたどっていることの反映ともいえる。そうした時代に何らかの「表現」をなそうとするわたしたちは、作品をパブリッシュしようとするたびに、このクソのようなげんじつにどう対峙していくかが問われている。「いまこそ難解な虚構が求められなければならない」。時が経つにつれて、稲川のこの語のかがやきが増すばかりに思えてならない。


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丑三つ時を越え、腹が空いたので、せんじつ母親から余っているからこれを食えといわれていた韓国のインスタント麺・ブルダックポックンミョンを食べる。鯨井風汁なし麺みたいなつくりかただなと思いながら卵と牛肉を入れて煮炒めし、ひと口。ハイパー辛い。胸が、胃が、熱い、痛い。妹が買ってきたらしいが、封もあけずにずっと放置していたようで、こんなに辛けりゃまあそうだろうと鼻水だらだらヒイフウいいながら完食した。なんとまだ4袋もある。こんどは水じゃなくて牛乳か豆乳でつくろう。熱をもった体内を鎮めるために「焼き芋飲めるってよ」という乳飲料を飲むが、こんどはスーパー甘い。振り幅がすごい。

YouTubeで海外ファンが投稿しているであろうドロヘドロの抜粋映像をいくつかながめる。1話だけ公開当時に観たことがあるが、原作をなぞりすぎでこれじゃファン以外ついてこれないのではと思ったおぼえがある。そう、はじまりかたはこんなにわけわからん!な感じだったのになぜおわりぎわはこんなにベラベラ説明してしまうのか! 連載期間の18年間で世相はこんなにもかわっていったのか、と暗澹たるきもちになる。

魔のおまけを観たが、ギョーザ男の声が低くてウケた。ギョーザッザッザッの発音!