もう一回光ってもいい?

アガンベンの話を同人会議でしているので、ちゃんと読むべえと枕もとに所持している本をあつめる。訳者の書いた概説書1冊含め、5冊ある。それぞれバラバラに読んではいるが、会議の最中、容易に話せるほど自分のなかに彼が存在していないので、まずは書くことでそこに近づく算段だ。ここでやる。

そんなことを思いつつ、ながらく積んでいた上妻世海『制作へ』のシュリンクをやぶり、収録されているテキストをバラバラと読んでいく。芸術、あるいはオブジェクト(道具)の自律性の話は、ペソアの澄みきったやり方で咲く花の話と似ていると思った。廣瀬純が彼の詩を引用しながら、著作のなかで以下のように書いていた。

「澄みきったやり方で存在する」とは、他人についても自分についてもいっさい表象を持つことなく、世界のまったき現前性のただなかにおのれの身体と脳とを書き込むということだ。(…)「我々が目にするどんな事物も我々の眼前につねに初めて出現するものでなければならない。実際、どの事物も我々がそれを目にするのは初めてだからだ。したがって、たとえ我々がそれをかつてのそれと同じ名で呼ぼうとも、すべての黄色の花はその一つひとつが新たな黄色の花なのだ(…)」(廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる』より)

カッコ内の文章は、ペソアがアルヴァロ・デ・カンポスとして書いたものである。たとえばわたしたちがタンポポを見るとき、「タンポポだ」とその種の名をもってその存在を認識する。だが、そこに咲いている花は、「種」であるまえに「個」である。その時その場にしか存在しない、唯一無二の形状をした一輪の花である。こうした世界の見かたをひとびとに回復させるものが「革命」であるとペソア-廣瀬は語る。そして上妻は「芸術作品」にその役目を担わせる。

現代社会は日常で五感を用いる必要性をなるべく排除し、抽象的な操作で生活することができるようシステムを整えている。しかし、マルティン・ハイデガーによると、それは現代において特有のことではない。彼の有名な道具分析は、僕たちが日常において物事を意識のうえで現象として扱っていないことを教えてくれる。僕たちはモノが壊れるまで意識/現象にほとんど頼っていない。ハンマーは壊れるか、棘が出ているなどして掌に痛みを生じさせたり、重すぎて持てなかったりしない限り、知覚されることはない。僕たちは地震や氷の上を歩かない限り地面を意識することはない。内臓は病に罹り機能不全にならない限り意識されない。(上妻世海『制作へ』より)

わたしたちは牛丼を食べるときに「この牛」を意識しない。だが、「具体的に牛の狩猟から調理までを見ている(内臓の匂いを嗅ぎ、肉を裂き骨を砕く音を聞いている)なら、「牛」も「血」も「肉」も、それ以外のものではあり得ぬ生々しい「実体」をもって、僕の情動と身体と結びついてしまうだろう」と上妻は書く。そうした回路をつくりだすものが「芸術作品」であるとも。あまり内容をおぼえていないが、ネグリの『芸術とマルチチュード』もそういう話をしていたのか? 気力があったら読みかえそうと思った。

ほか、引用されている宮川淳の文体の異様さにしびれる。

昼、食パンにハムとチーズとマヨを載せ、こしょうをふったもの、それから昨晩つくった鰯とじゃが芋のトマト煮をもういちまいに載せ、トースト。うまい。

夜、肉野菜炒め。豚肉・しめじ・舞茸・キャベツ・玉ねぎ。にんにくと塩胡椒・鶏がらスープの素・醤油。

プリキュア食玩カードにはウエハース、キラキラカードグミ、クリアカードコレクション、キラキラトレーディングコレクション……といくつも種類があって、それらをフルコンプしようと思えばそれなりの金額がかかる。わたしの胸のうちにあるプリキュア愛を注ぐために、何かに手をだそうとは思っているのだが、こうして複数の選択肢をまえにしていると何もできず、「最新ビデオの棚の前で 2時間以上も立ちつくして 何も借りれない」(syrup16g「神のカルマ」)になっている。

トロプリ40話。みのりん回。「あたまでっかち」で「穴があったら入りたい」という台詞があるシーンの画。小石に蹴躓いて地面にたおれたみのりん先輩をアップで映し、彼女がさらにうつ伏せになるうごきも取り入れて、言葉を補強していた。画を意味に応対させる、正統派のうつくしい演出だった。ほか、まっさきに「気を利かせる」ローラの成長ぶりにほほえましいきもちになった。つねにわたしがわたしがというきもちが先走っていた彼女が、かけがえのない友人たちと過ごすことによって、明確に変化を見せている。これは、今回フィーチャーされていた「伝説のパパイア」にも通ずる構造である。

ほか、胸を張るローラとまなつの芝居がよかった。出勤前の妹が、原稿用紙に書かれた『マーメイド物語』の表紙を見て、「みのりちゃんは升目からはみださずに字を書く人だと思ってた」とつっこんでいたのが印象的だった。みかえしてみたら、たしかに字がはみだしていた。

バイス14話。クルクルといろんなものがひっくりかえっていてたのしい。フェニックス内でも、デッドマンズ内でもこれまでAだったはずのものがBとなるさまが描かれ、さらにはいっきにいの「おせっかい」を「エゴイスト」に反転させるようなツッコミもあり、そのくつがえりのドラマが今回の見どころとなっていた。次回は敵基地に突入する展開だそうだが、はやくもクライマックス感があり、たのしみ。毎話毎話おもしろいおもしろいと観ているが、ほんとうにおもしろい。これまでの人生で「仮面ライダー」を全話通して観たことないのだが、そのはじめての作品になるかもしれない。


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さむくて気分がおちている。そうするとどうなるか。ふとんにくるまってブログを読むことになる。会ったことのないひとの無数の生活を読み、自身の位置をたしかめるのだ。ずいぶんとうしろむきの動機だが、読んでいるうちに多少は回復が起こり、起き上がれるようになる。

夜、とろろ山葵入り。豚バラ・ゴボウ・長芋・人参・長ネギの味噌炒め。うまい。

祖母に最後に映画館に行ったのはいつかと問うと、10代の頃ではないかと答えるので、その歴史のあつみに衝撃を受ける。ゆうに半世紀は経っている。何年か前に『二十四の瞳』が好きだという話をきいたおぼえがあり、観る機会なくいまに至ったので、こんどいっしょに観ようと誘うとよろこんでいた。小学生の頃に教師に引率されて観に行き、それからしばらくして「いい映画だったな」という思い出を頼りに自ら映画館に観に行ったと言っていた。