廣瀬純の「映画入門」と題された講義をゆーちゅーぶで観た。著書でも展開されているフェイスtoフェイスの切り返し(クロースアップ)とサイドbyサイドのロングショットの対比の話。こういう見立てがひじょうに刺激的。小津安二郎は「同じかたち」をおさめることにしか興味がないみたいな話がめちゃくちゃおもしろかった。1作くらいしか観たことがないが、、
ラジオでバンプは回顧してないんですが、みたいな話をしたので『ユグドラシル』を聴きなおす。「オンリー ロンリー グローリー」のはじまり!とテンションがアガるが、湧き上がる高揚がアジカンとはちがって「懐メロ」としての質感のような気がする。これは「ストーリー」か「エモーション」かみたいな話かもしれない。持続/瞬間の対比でもいい。わたしは後者のスタイルを好み、それがバンプ/アジカンを分け隔てているのではないか、という仮説。
廣瀬純の講義を観た流れでジュンク堂のチャンネルに上がっていたマニュエル・ヤンとの対談を観ながら思ったのは、たとえば「上級国民」という語のことで、こうした物言いをだれがするかといえば、当の「上級国民」たちではなく「そうでないひとびと」であって、もし現代に階級に立脚した反資本主義運動、それも大規模なものがおこなわれるとすれば、それはその主体自らの階級の自覚なしには生じ得ないだろうということだった。他者を「上級国民」と僻んだり、見上げたり、怨嗟したりしているだけでは「階級闘争」には発展していかず、自らを「アンダークラス」として生きるひとびとが増えなければ、どうにもならないということだ。そんなことを考えていると、イ・チャンドン『バーニング』を観た際の感想を思いだしたので貼っておく。
バーニング、きょうれつなるすばらしき翻案! スノビッシュであっさりとした原作が、『ぼっちゃん』的な屈折と衝動をはらんだ反発の刃となってスクリーンに燃え立つ。ないことを忘れるパントマイムの仕草から、ない(とされる)ものをあると信じこむ現実の行為へ。階級闘争は自己の再規定から始動する
「階級闘争は自己の再規定から始動する」。めちゃくちゃたいせつなことですよ、これは。自らの手によって、自身を名づけなおすことが、あらゆる変革のための、革命のための第一歩なのです。
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こうやって寝入りにゆーちゅーぶを見るようになると夜ふかししてしまうのでよくない。ここ2ヶ月ほど過ごしてきて、家族がしごとから帰ってくるまでの「家に一人でいる時間」を最大限有用につかえる時間割で生きていくことが、実家ぐらしの最大のポイントだと思った。なにより居間にPCがあるのが問題だ。テレビがうるさい。
芸人のラジオを聴きながら就寝。午前中に起床。