まだわたしたちは手をとりあうことができる?

焼き肉を腹がはちきれんほど食べた。こんなにのびのびと焼き肉をするのは大学生以来ではないか?と思うと、焼き肉にいくような友人がいなかったのだなとかなしくなる? いやならない。そもそも「焼き肉にいくような友人」ていったいなんなんだ。とにかくマイラブイズ牛タン。牛タンイズマイラブ。いつか100人前を食べたい。うしの舌をまるごと焼いてかじりつきたい。

なんと今回はいとこにおごってもらったので、新年会はわたしがおごるよといって別れた。親戚のあつまりなどで「子供枠」として処理されていたわたしたちが、こうしていとこ同士でごはんを食べにゆくことになるなんて、とひじょうに感慨深くなる。みな、口数がすくないところもかわいい。きもちよく酔う。

チェンソーマン、アニメ化はわかっていたけれども第2部ってなんやねん!!! もうおわるというから手をのばしたのに、、まあそんなことをいいつつもどうせ続刊も買ってしまうのですが、、と深夜にふとんのなかで叫びながら入眠。叫ぶというのは、じっさいにではなく、あたまのなかの話です。


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洗濯などをしつつ、詩書を段ボールから本棚へ移し替える。こっちにいるうちに詩を読むべえという気になったのだった。ラジオの恒例コーナーにもなりうるし、リハビリにもなる。といいつつ、手にとったのは『大失敗』の2号。吉永剛志による高橋幸途の回顧録と、しげのかいりによる絓秀実のテキストを足場にした巻頭言を読む。前者のエッセイでフィーチャーされているのが「編集者」であるのに対して、テキスト自体にはあまり編集の手が見えない(たとえば、「当時の私はのっぴきならない事情が重なり、実家がある高知に当時帰っていた」というような文章がのこっている)のをへえと思いながら読んだ。註に原稿に対する編集部からのコメントが引用されていたので、目が通っていないわけではないのだろうが。また、上野千鶴子の「(私のフェミズムの根本は)「命より大事な価値がある」と言うイデオロギーへの嫌悪でしょうね」という発言が引かれていて、個と大義の話をラジオでしたばかりなのもあって、そういう立脚点なんだなという発見があった。後者のテキストに関しては、おおきく扱われている三島を読んだことがないので十全に読めてはおらず、なおかつ自らの興味に引きつけた積極的「誤読」ではあるのだが、むすびの段で「僕たちが回復するべきは個人的な美を語ることで他者に開かれる「憐み」と「みやび」といったフィクションの言葉である」という記述があらわれるのを見て、個への立脚をわたしも考えなくてはならない気がする、と思った。それはここでしている「革命主体」の話に通じていくはずだ。

親の観ている『鬼滅の刃』をBGMに『デザインの種』を読んでいたが、画面を見ていなくても何が起きているかがわかるくらいに説明台詞に埋め尽くされていて、ひとの「読むちから」の下降ぶりがよくわかるよい例なのではと思った。