ひかんてきぼうかん

松屋で夜食を済ませ(プリキュアコラボをやっていたのに失念していて頼みそこねた!)、HQハウスへ。駅に着いた時点でSさんを呼び、さらにはQさんがOくんも呼んで、10年代の東京ライヴシーンにおけるバンド名をひたすら挙げあうという遊びをした。かつて聴いていた、そしていまも聴いている音楽のなつかしいひびきが、夜の深まりとともにわれわれの呼び交わすコードの波長を増大させていった。あるときQさんがヨギーのなにかの曲を流した際、Sさんがべつのバンドの曲だ!と発声し、つづいてわたしもピロウズのスマイルですよ!と言い、かけたQさんはルー・リードだ!とそれらの曲のイントロを連続して再生する流れがあって、その相似と反復のここちよい〈ずれ〉のグルーヴがわれわれのこの夜をかたちづくる基層のアトモスフィアとしてあることが判明した。この空気は足を卍にしてねむるSさんの寝相として結晶化し、やがてほどかれた卍はQさんの煙草を逆回転させて酒の海へとダイブさせるのだった(これが卍解?とはじめてこの文字列を打ちこむことによって、この言葉が「マンジカイ」でなく「バンカイ」と読むことをしったのだった、おれはブリーチを読んだことがない)。わたしはすでにその奥底に沈んでいた。

ぎょうざの満洲荻窪駅へと向かうこの路を通るたびに看板に描かれているチャイナ娘が気になっていて(そう、わたしはチャイナガールの表象がだいすき)、ようやくの初訪。餃子・ライス・スープ付きの野菜炒めセット。900円。味はさておき、腹いっぱい。料理の載ったお盆がサーブされた段階で注文画面に表示されてあった餃子のすがたがなく、そのことについて何も案内がなかったので「これって餃子ついてないんですか?」と店員に尋ねたら、その場で返答するのでなく、いちど厨房を確認してから「今焼いています」と答えられたのがよくわからなかった。と書いたが、メニューの詳細をしらずに配膳したと考えるとすべてに納得がいくことに気づいた。着ていたお気に入りの白シャツに餃子のタレが飛んでかなしかった。あんなに好きだったTROVE、もう何年も行っていない。

新大久保の路地裏をさまよいながらアンビカショップにてチャイのスパイスと茶葉を買い、新宿眼科画廊へ。羽良多平吉直系のアナロググラフィックやカオスラ以後のアニメペインティングなどを観たのち、バルト9。ロビーでは、放送がはじまったばかりのオトナプリキュアについて語る大友の会話が耳に入ってくる。



田中裕太『映画 プリキュアオールスターズF』(2023)。圧倒的大傑作。ひょっとするとオールタイムベストを更新するかもしれない1作。数年にいちどあるかないかレベルの、すさまじさをこれでもかと全身に浴びる映画体験。中盤以降、ずっとなみだを流していた。いや、中盤どころではない。回想シーンによって幕を開ける冒頭からどうやら今回はひと味ちがいそうだぞという兆しがあり、スカイ、プレシャス、サマーという直近の主人公たちの共闘によって展開されていくオープニングシーンの時点でわたしは落涙していた(気合の入りまくった超作画アクションにあわせてグルングルンにうごくカメラも、挿入歌的にかかるOPもまたいい)。これまで観た映画のなかで、もっとも涙液をこぼした作品はおそらくエミール・クストリッツァアンダーグラウンド』(1995)で、もっともなみだのきわまり(どれだけ抑えようとしても泣く声が口から漏れそうになった)を感じたのがフリドリック・トール・フリドリクソン『マンマ・ゴーゴー』(2010)なのだが、本作はもっともながい時間なみだを流していた作品として自分史に記録されることになった。

史、つまりはヒストリー。総勢78(+α)のプリキュアたちが勢揃いする本作もまた、「20周年記念映画」と銘打たれている通り、歴史性にその多くを負う作品である。20年分のときめきときらめきが背後にかがやいているからこそ、本作の放つ光もその光度を増すことになる。たとえばプリキュアにおいて「伝説」と称される無印8話がある。「美墨と雪城」が決裂し、「なぎさとほのか」になる回である。そのような回が、本作のなかには星座のようにちりばめられている。かつてなく強大な敵に対峙し、仲間たちは次々にたおれ、プリキュアは絶体絶命となる。プリキュア映画における定番の流れである。むろん、この映画においてもプリキュアたちは「絶対に諦めない」。「奇跡」をもたらすスーパーアイテム・ミラクルライトが世界を照らし、この20年間におけるプリキュアの名シーンがスクリーンに次々と映しだされていく……。その乱打ぶりに心を打たれないプリキュアファンはいない。エスカレーションの極限を見るような、もはや暴力的でさえある「プリキュアの歴史」の怒涛の閃光を浴び、わたしはバッグにしのばせてきた自分のミラクルライトに手をのばすこともできず、ただただ頬をぬらして打ちのめされていた。

ここで思いだされるのは『∀ガンダム』(富野由悠季、1999)における黒歴史演出で、オールスターズ映画としてはひとつ前の作品となる『映画 HUGっと!プリキュアふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』(宮本浩史、2018)を観た際にもその名をだし、以下のように記述したことがある。

文脈を無視して台詞を放つことのできるミデン[引用者注:敵キャラ]は、膨大なプリキュアデータベースのなかから選りすぐりの言葉を何度も口にする。そのいちいちが、わたしたちのプリキュアの記憶をくすぐり、さらにはプリキュアの台詞が敵の口を通してあらわれるという回路は、反発を生むギミックとして心的な起伏すらもつくりだす。本作では、このような「プリキュアの経験」に基づいたテキストが、ターンエーガンダム黒歴史演出をエモとポジの方向に全振りしたようなしかたで展開されるのである。観客の胸のうちにあるプリキュアとの思い出が、そのままプリキュアの力になるという最強の応援シチュエーションに胸を熱くしないプリキュアファンはいないだろう。

5年前はあくまでもテキスト/ヴォイスとして参照されていた過去の歴史が、今回は映像として、まさしく∀ガンダムと同様に当時のフィルムのままに観客に提示される(と書いたが、ついったでおこなわれた監督コメンタリーによるとすべて完全新作として描きおろしているそうだ、すさまじすぎる……)。その直接性をよしとするかあしとするかは判断の分かれるところだが、それが観るものの心にダイレクトにひびいてくるのは疑いようのないことである。題の末尾に置かれ、PVにおいても謎めいた演出をともなってフィーチャーされていた「F」とは、FilmsのFでもあると、そう言いたくなるほどの物量が、20年という時間のあつみを後景にわたしたちに降り注いでくる。あまりにも豪華なカットがすさまじい速度で展開されていくので、われわれ観客はたったの一回の鑑賞ではそのすべてを視認することはできないのだが、それにもかかわらず感動は心中に起こり、「すべてを視認することができない」がゆえに感覚される膨大な「史」がきょうれつに身に迫ってくる。

目眩くプリキュアの歴史は、このすさまじい乱打シーンにおいて編成されるバトルチームにも反映されており、スイーツをモチーフにしたプリアラと食をモチーフにしたデパプリにタッグを組ませたり、人魚のプリキュアであるキュアラメールと名に「人魚」を含むキュアマーメイドを絡ませたりと、プリキュアを知悉しているからこその心をゆさぶる組み分けとなっている。「このプリキュア同士のかけあいが見たかったんだよ!」というファン心理をすくいとるこの選出は、これまでプリキュアに触れてきた時間が多ければ多いほど、観るものの胸をつよく打つだろう。

なお、名シーン演出はEDでも反復され、現行プリキュアの主人公であるスカイが、かつてのプリキュアたちに映像を通して触れ、投影をたどっていった先に、じつぶつ(?)の彼女たちがずらーっと並び踊っているというダンスへのうつくしい導入がある(パートナーであるプリズムと手をつないだ先にその光景が待っているという流れもあざやかである)。シリーズものの集大成映画として、ひとつの究極を観た思いである。


▼「F」のヴァリエーションが続々と画面にあらわれるPV
www.youtube.com


▼オルメモの感想
seimeikatsudou.hatenablog.com


回想シーンによって幕を開けると書いたが、本作はこれまでのプリキュア映画に比べて明確に「複雑さ」がつよまっている。その代表的なものが、「史」のよみがえりとも連接することができるだろう、回想形式による時系列の錯綜と、メインのプリキュアたちを複数のチームとして編成する並列化の手法である。「複雑」はメインの視聴者層である未就学児にとっては「壁」として立ちはだかることが予想されるが、かけあいの最大値が目指されたであろうチーム分けの内訳や、横スクロール風(ミラクルユニバース!)の画面四分割をはじめとする画面の工夫、プリキュア同士のやりとりのとびきりコミカルな描写、監督である田中が同じく絵コンテ・演出を務めたトロプリ29話を彷彿させるバチバチのバトルアクションと、さまざまな方法によってそのけわしさを軟化させる試みがおこなわれていた。プリキュア映画史において興行収入および観客動員数歴代1位という結果が、その成功を物語っているだろう。その内訳として、大人が数多くきたのも事実であろうが、映画館のトイレでは、「プリキュアが観たくなった!」と父親に語りかける女児のすがたをわたしは上映後に目にしている。「史」を魅力的に見せることにも成功している証左であろう。平日の昼下がりということで家族連れの数は少なかったが、それでもわたしの目には子供の振るミラクルライトの光が映り、それもまたわたしの涙腺を刺激するのだった。

さて、世界の崩壊と再生(この再生された世界が「フラットアース」であるのがおもしろかった、「陰謀論」としてでてきているのではなく、もとの世界とは異なる「不完全さ」をあらわすための形象、球体は「つながり」を感じさせるが、平面には表裏という「分離」がそのうちに含まれてある……)を、手を離す/手を繋ぐというアクションによって語りなおす本作だが、この「手」というモチーフは澁谷桂一『エウァンゲリオン』(2023)と排気口『時に想像しあった人たち』(2023)とも通じ合うものである、という話はラジオでした。その話のもととなった連ついを張って本記事はとじる。


▼『エウァンゲリオン』について
seimeikatsudou.hatenablog.com


▼『時に想像しあった人たち』について
seimeikatsudou.hatenablog.com
seimeikatsudou.hatenablog.com

クストリッツァアンダーグラウンドを観たとき、服の襟がぐっしょり濡れるほどなみだを流した思いでがあるのですが、それに匹敵する涙液を延々こぼしていました。一を二に割るとは階級闘争の、ひいては革命へと至る自己規定の方途でもありますが、つまりそれは〈繋ぐ〉を可能とする技術でもあるのだと

手を離す(≒二を一と一に割る)とは近年の排気口における主要なテーマのひとつであり、その逆をプリキュアはやっているわけですが、ひととひとのあいだを問題にしていることに変わりはありません。歴史という距離を、どのようにむすび、取り扱うのか。∀ガンダムの偉大さが光のなかでかがやいています

またこの手を繋ぐとは『エウァンゲリオン』における映画-運命のなかに風穴をあける恋愛革命を為すための唯一の所作であり、愛の形象を画において非-直接的に表象するアクションでもあります。バコォンの音がギュウッへと変奏されるFの到達する地点もまた、あり得たかもしれない未来のかたちなのでした