返却の回廊(にがみあじ)

昨年は湯船でひとり年をまたいたが、今年は居間で家族と迎えた。ジャンプ中に年を越そうとする妹と母をながめて祖母とわらう。

Apple Musicのニューミュージックプレイリスト、UVERworldが流れ、なんでだよと思ったが(00のopedプレイリストを聴いたから?)聴きすすめるとmorohaみたいなエモーショナルなポエトリーリーディングで、さいごまで聴いてしまった。「EN」という曲。

晦日から元旦にかけて、外は猛吹雪。寝床は極寒。

漫画初めは藤本タツキ『ルックバック』(2021、再読)。つづいて同じくタツキの『ファイアパンチ』(2016-2018)。4巻まで読む。おもしろい。無軌道感さえ感じられる話のはげしい展開ぶりを見るに、『チェンソーマン』よりも好きかもしれないと思わせられる。『チェンソーマン』における「テメエら全員殺せばよぉ! 借金はパアだぜ! ギャアーハッハハァ!!」に代表される高いテンションが、台詞ではなく物語自体に見いだせる気がする。骨組みがずいぶんと負荷をかけられてねじまがっている感じ。だが、細部まできちんと作家のコントロール下にあるのがいい。わたしはいびつなものが大好きなので、そのていねいにゆがませたようなストーリーの形状がめちゃくちゃにたのしい。

つばな『惑星クローゼット』も無料公開されていたのでおわりまで一気読み。おもしろい。ループものの魅力を再認識した。かわいらしい絵柄できもちわるい描写がでてくるのがいい。石黒正数経由で七女を初期から買い集めていたが、途中まで買って止まっている気がする。


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モリサワパスポートの更新。けっして安くない額が飛ぶので、いっときは1年きりでやめようかなと思案したが、継続する。なによりいま受けているしごとにモリサワのフォントをバリバリつかっているのでやめるわけにはいかない。昨年は価格のぶんを充分に活用できたかと問われると心許ないが、今年は役立てられればよい。

映画初めは宮本浩史『映画 HUGっと!プリキュアふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』(2018)。プリキュア映画最高傑作。断トツ。とんでもなかった。すごいすごいときいていたが、ほんとうにすごかった。にわかファンのわたしでさえこんなに感動しているのだから、ハグプリに至るまでのシリーズをすべて観た上で本作を劇場で観たひとは鑑賞中に座席で昇天してしまったのではないか。プリキュア愛にみちあふれた、とにかくスペシャルで、プリティで、キュアキュアな15周年記念作品。逆にいえば、プリキュアをしらないひとがさいしょに観るのにはあまり向いていなさそう(すべてのプリキュア映画同様、前知識は要らないフォーマットではあるが)。そういう点では春のカーニバルに似ているかもしれない。

さて、この感動は何に由来するかといえば、わたしたち観客の身体に刻まれたプリキュアの記憶である。本作では、これまでに観てきたプリキュアの勇姿が、挫折が、友愛が、いま目の前に映る画面を支える強力な装置として機能していた。まずすぐれているのは、プリキュアの記憶を回収するという敵の特性である。一度も使用されることなくしまわれたままだったカメラの付喪神・ミデンは、あらゆるプリキュアの記憶を吸収し、そのキラキラとした思い出で自身の空っぽなメモリを満たそうとする。記憶を吸い取られたプリキュアが赤ちゃんになってしまうというしかけは、ハグプリとの親和性にあふれ、そうして登場するベビープリキュアたちのかわいさは、ひじょうに映画映えするものとして画面を彩っていた。そこで駆動する子育ての大変さは、前半のドラマを形成するひとつの鍵にもなっており、同時にns3のように子供と一緒に観にくる親への目配せにもなってもいた。アンドロイドであるアムールが、赤ちゃんではなく工具のボルトになる(かのようにかんちがいさせる)展開もふざけていておもしろかった。ミデンに関してもうひとつ付け加えるならば、てるてる坊主型というキャラクターのフォルムも、土砂降り雨の心象風景と接続されるあざやかさがあり、そこもよかった。

何より卓越していたのは、奪取した記憶をもとにミデンにプリキュアたちの決め台詞を連発させる作劇である。オールスターズ映画ではプリキュアたち一人ひとりに台詞を喋らせるのもひと苦労であり、これまでの作品群のなかでも、一言も喋らずに絵だけが登場するプリキュアも少なくなかった。なおかつ本作は歴代最大の総勢55人ものプリキュアたちが登場する。70分強の尺のなかで、彼女たちすべてを劇中でキャラ立ちさせ、活躍させるのははっきり言って不可能である。そして、この困難を打ち破らんとする存在がミデンである。文脈を無視して台詞を放つことのできるミデンは、膨大なプリキュアデータベースのなかから選りすぐりの言葉を何度も口にする。そのいちいちが、わたしたちのプリキュアの記憶をくすぐり、さらにはプリキュアの台詞が敵の口を通してあらわれるという回路は、反発を生むギミックとして心的な起伏すらもつくりだす。本作では、このような「プリキュアの経験」に基づいたテキストが、ターンエーガンダムの黒歴史演出をエモとポジの方向に全振りしたようなしかたで展開されるのである。観客の胸のうちにあるプリキュアとの思い出が、そのままプリキュアの力になるという最強の応援シチュエーションに胸を熱くしないプリキュアファンはいないだろう。

また、それぞれのシリーズのアレンジされたBGMがメドレーで流れるシーンがあり、我々観客は劇的に心をゆさぶられるわけだが、そこではなんと全シリーズの楽曲が流れるのである。15年の歴史をぎゅっと圧縮した、あらゆるプリキュアファンに突き刺さる尋常ではないすさまじさである。むろん、挿入歌「リワインドメモリー」もヤバい。そして、そうした音楽のちからがかがやいているからこそ、ここぞというところに使用される無音シーンの鋭利さが突き刺さってくる。オープニングの初代のバトルシーンから感じることのできるCGと作画のいいとこどり感のあるアニメーションは、「時折使用されていたCGアニメーションもとうとうここまで……」というようなきもちになり、これまで時代を追ってプリキュア映画を観てきた感慨が心中からじわとこみ上げてきた。

本作の脚本は香村純子が担当しているが、とりわけ印象的な「プリキュアって言ったってただの中学生だよ!」というなぎさの台詞は、後年のヒープリにおけるのどかのダルイゼンに対する拒絶に連なるものとしてひじょうにエモーショナルにひびいてきた。すべてを背負う救世主としてのヒーロー/ヒロイン/主人公像ではなく、あくまでも単なる少女・個人なのだという矜恃。これはおもちゃの国で美希たんが説くプリキュア倫理とは真逆の主張であり、そこには時代の変化を見いだすことができる。ここには15年の年月を経てたどりついた、プリキュアの集大成があるのだ。こうした傑作がつくられていたことを思うと、2023-24年の20周年イヤーがたのしみでしかたがない。また、いつかは70分という枠を越えた映画も観てみたいとも思った。セーラームーンおジャ魔女といった作品が年月を経て「大人向け」の方向も打ちだしてきたことを思えば、実現も夢ではない気がする。