20年後に起爆する街

青の護衛隊のアクスタ発売の発表、めちゃうれしい。さいきんはあまりプリキュアのアクスタを買わなくなっていたが、これはソラ、シャララ隊長、ベリィベリーのセットでほしい。

アクスタといえば全プリキュア展でも追加グッズが発表され、全78体のいわゆるパワーアップフォームでの発売が告知された。いや、うれしい、うれしいが、その物理的なボリュームに戦々恐々するばかり。おれが富豪であったならば、、

保坂和志「夏の終わりの林の中」再読。すばらしい。わたしが思う理想の「感じ」がある。30代半ばの男女が林(自然教育園)のなかを歩いて、そこらに生えている草木や来園者に向けて立てられた看板の文字など目に映ったものについて、自分の思いでや夢なんかの話も交えてくっちゃべっているだけなのだが、それがむちゃくちゃにいいのである。わたしは似たようなことをどこかに書いたおぼえがあったので、それをひっぱってくるためにブログやついったを検索したが見つからず、ということはだれかに直接話したのかもしれないと納得してここにまたもどってくる。やっぱり自然教育園には行かなくちゃと思った。すこし引用する。

……とまで書いてこの記事はしばらくほおっておかれてあり、いざ文を書き写さんと本をひらいたら本作が占める頁内にはひとつも付箋が貼られておらず、かつてのわたしがいったいどこについて書こうとしていたのかまったく見当がつかなかった。あたまからおしりまでざっと読みかえしてみても該当の箇所がわからず、だからこのブログのタイトルに関連しそうな台詞を引用して茶を濁しておく。わたしは茶を濁したり、でっちあげをしたりすることによって文を、思考を、前へとすすめている。むしろ思考や文なんてものは、濁した茶のたまったプールであり、でっちあげたものごとをつぎはぎしたかたまりでしかないと思っている(ほんとうか?(勢いで書いている(これこそがでっちあげであり、茶濁しである

「花が咲くと、草の持っている力を隠しちゃうの」


夜、芋豚鶏の山椒ガーリックチーズ炒め。うまい。

ひとにあげようと思っていた本を前回の東京行きの際に忘れてしまったので、その捜索をする。蔵書のほとんどが積み上がった段ボールに入ったままのため、そしてわたしの部屋にはエアコンがないため、すぐに汗だくになる。1階にだしてある本も漁り、ここ1年内には見かけたはずなんだけどなとなんども階段を往復しながら小一時間ほどかけてようやく目的の本にたどりつく。ぶじに見つかってよかった。水シャワーをだばばと浴びる。



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澁谷桂一『エウァンゲリオン』第3話。「目ェ瞑ってさァ、おんなじ花火の夢見てみようぜ」。闇鍋パーティに誘ったはずの女の子たちはだれひとり会場にやって来ず、男4人で布団に寝っころがりながらだべるシーンで天(天! つまりは死神がやってくるところ!)に向かって放たれるこの言葉。ここ数年観た映画の台詞のなかでいちばん痺れた。

そして、マジカルでワンダーすぎる公園のショット。前回の東京滞在時、澁谷さんが語る「幽霊」の話に対して、「アリーチェ・ロルヴァケルとかいいんじゃないんですか?」みたいな、そんな言葉をかえした記憶があるが、カメラがパンした先の光景にそのやりとりが思いだされた。ここで画面に映しだされているのは、言わば生者と死者が共存する風景である。とつじょ作品のなかにインサートしてくるたくさんの子供たち(そのすがたかたちよりも先行するのは「声」である、幽霊とは接触できないが、声を介してなら関わることできるとのちのシーンはわれわれに伝える/一方、生者と生者をつなぐはずの電話は、今話ではつながることがない)。作品の外部に立脚する、一種メタ的なキャラクターとしてあらわれる幼き彼女/彼らは、しかしそのような存在ではない。この公園のショットがその分裂を伝えているのは、内と外ではなく、生と死である。そしてこの裂け目がここでこうしてあらかじめ告げられていたことを、わたしたちは衝撃的な幕切れによってしるのである(ゆえに、ラストシーンにおいては公園とは逆方向にカメラがパンする、地を這うビニルはやがてを空を飛ぶであろう凧の助走となるだろうか?)。

急転直下の第3話、最終話はいったいどうなってしまうのか。本作は彼のフィルモグラフィのなかでもとびきりチャーミングな香りのするものだと思っていたのだが、今回のラストシーンを見るに単にそれだけではなく、どうやらとんでもない作品になりそうだという興奮が心の奥からずももと湧き上がってきた。


▼ロルヴァケルへの言及がある記事、映画自体も再見したくなった
seimeikatsudou.hatenablog.com
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