エーゲ海エーゲ海エーゲ海エーゲ海

テレビで流れていたので細田守おおかみこどもの雨と雪』をひさしぶりに観る。冒頭、終始鳴っているかのように思える音楽に、高木正勝さいきょうか?(当時サントラを買った)のきもちにまずなり、引き画主体の抜け感のあるレイアウトに感銘を受ける。徹底した左:にんげん/右:おおかみの配置もおもしろく、そしてわたしの興味関心が雨ではなく雪にあることもおもしろかった。鑑賞当時大学の授業で本作についてレポートを描いた記憶がよみがえり、それをひっぱりだしてみる。親と子で逆転する関係性など構造的な話が多く、いまとはちがう映画の見方をしていると思い、それがおもしろかった。ほか、ポスターやフライヤーなどに使用されていた花が雨と雪を抱えて仁王立つキーヴィジュアルをどうこういっているところ以外はさほど大した言及はなかった。

そしてここで触れたいのがはじめに述べた仁王立ちする花の姿である。真っ直ぐと前を見つめる花に迷いはない。彼女は雨と雪をしっかり育てようと決意している。
しかし、そのしっかり育てるというのも花自身の利己的な考えがまとわりついており(ゆえに私はゆらぎを含めた「母」を描いたと評価している)、その抱きかかえ方にも無意識が現れる(雨を左手で抱え込むのに対して、雪はお尻に手が添えられているだけである)。また、ひしと花にしがみつく雪の姿には人間への執着が見て取れるし、片手だけで花を掴む雨にはおおかみへの予感を感じさせられる。さらにその二人は花の方ではなく、それぞれ少しずれた方向を向いている。ここからは二人のそれぞれ別の道を行くという母との別離を暗示を見いだすこともできるだろう。


こういう妄想力で文章をドライヴさせていく気力、さいきんは失っているかもしれない。上記のテキストは9年も前のもの。この期間、何を失い、何を得た?

献立、鶏とアスパラと玉ねぎのバターポン酢炒め。昨夜妹がおおかみこどもにでてくる焼き鳥をつくったあまりの鶏肉。美味なり。


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祖父の三回忌。葬儀の際、まったく縁もゆかりもない生臭坊主がやってきて不愉快な思いをした記憶があるが、いまやりとりのある住職はずいぶんとくだけた感じの人当たりがよさそうなひとだった。お経を上げてもらい、焼香を済ませて寺を後にしようとすると、位牌と遺影を忘れていないかと声をかけられ、案の定すっかり忘れていたので家族でひとわらいする。帰宅して爆睡。

めざめ、朝食を妹と自分と祖母に用意したのち、ひさびさに祖母と映画を観る。アリーチェ・ロルヴァケル夏をゆく人々』(2014)。あらためて、いい映画を撮る監督だと思った。同監督では『幸福なラザロ』を観ているが、本作でもここぞというときに映画的ワンダーが炸裂するショットを用いていて、劇場ではなく家庭内鑑賞とはいえビリビリとふるえるものがあった。ひとつのショットのなかで、複数の時空間を存在させること。それが二連撃されるラストのすごみ。遠景に灯る蛍火のような車のヘッドライトをとらえたファーストカットもよい。終盤ちかくになっての鏡面をもちいたカットのつなぎもひじょうに冴えわたっていた。祖母は退屈したのか途中で居眠りし、やがて寝室に去っていった。なにごとも、観る眼を鍛えなくては何も見ることができない。すこしでも見ることができるように、さまざまなものに手をのばしてゆく。

ところで、祖母はほんとうにどうしようもなくあたまがわるく、かつて何社もサラ金に手をだして借金だるまになった過去があるのにもかかわらず、何の反省せずに80余年の人生を生き、いまだに信じられない数の無尽に入り、まいつき自身の収入よりも多い支出をつづけている。そういう事実をいまはじめて目の当たりにしていて、わたしは胸を食い破られるようなかなしいきもちになる。わたしはばあちゃん子で育ってきたが、こうもわたしの忌み嫌う「くそばか」の面を見せられるとつらいこころもちになる。「負荷」とか「微動だにしない」とか、とにかく言葉をしらないのもなみだがでてくる。よくもまあこんな体たらくでいままで生きてこれたなと思う。これは断じて希望などではない。搾取されつづけて生きながらえることの悲哀である。

しかしこんなことを書いているわたしだっていまは親の脛をかじって生きているに過ぎず、ひとのことをどうこういえる立場にないのだ。ありがたいことにしごとは途切れずにぽつぽつともらえているが、ぽつぽつレベルじゃ生きてゆけないのよな。人生を立てなおすってむつかしい。

献立、きゅうりの白和え、ズッキーニと玉ねぎとそせじのパプリカコンソメ炒め、春菊と豚肉のトマトスープ。あごだしと白だしと白ごまで味つけした白和えがベリナイスなお味。食後しばらくして妹の持ってきたチーズケーキも食べる。塩気のある生地がうまみちゃん。