新しいふんぞり

黒沢清ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)、藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』(2003)、黒沢清アカルイミライ』(2003)を立て続けに観る。涙。滂沱の涙。観おわってポタポタと涙が目から流れ落ちつづける。『アカルイミライ』はほんとのほんとに世紀の超超超超大大大傑作だ。2012年の秋、わたしに「映画」を電撃的にたたきこんだたましいの1本。当時、映画にはこんな芸当ができるのだとあざやかに告げてくれたラストシーンは、現在のわたしをもきょうれつに直撃した。あまりにもよすぎて、ほんとはぜんぶ観るつもりではなかったのだが、丸々観てしまった。オールタイムベストのうちの一本だと、いまになってようやく確信した。

ドレミファ、被写体の前を「フレーム」が横切っていくオープニングからして、「映画」に対する欲望があふれており、とても心を惹かれる。黒沢映画にはつきものである「風」はこの当時から吹いていたのだなと思ったし、廃墟的なデカイ空間へのまなざしもその後の作品の系譜につらなっていくものだと思った。テキトーなエロカットに比して、机の上を歩いていく女学生の「脚」や、主人公である洞口依子の機嫌のわるそうなたたずまい(瞠目すべき前髪のおもさ!)に目を奪われ、文学的長台詞をノイズの走ったビデオと風であしらうスタイルにも高揚した。劇中で彼女が言い放つ「くるって回る練習」が「狂って回る練習」としてもわたしには聞こえ、この回転こそが、「映画」という運動の核にあるのだという宣言としても耳にひびいた。

曖昧な未来、言語によって考えることのつよい輪郭性みたいなものを思いながら観ていた。まずさいしょに言葉によって支えをつくる。あるいは、言葉によって枠組みをととのえる。そういうひとのことを、わたしは信頼するのだし、好きなんだなとも思った。黒沢清の「大勢の人と一緒に観る場」こそが「映画」なのだという定義もよかった。編集の場では独裁者であるということも、「編集者」として自覚的でいいなと思った。編集者はそこにあるすべてを「素材」として扱う。畢竟、あらゆる編集者は帝国主義者である。

アカルイに関しては、「死者をその場に立たせることの可能」という映画メディアのおもしろさをせんじつ観たアリーチェ・ロルヴァケルも思いかえしながら考えていた。これは映画にかぎらず演劇や小説や詩でもできることだが、映画でそれをやるとき、わたしの心は射抜かれるのだと思った。

文芸誌を完成させ、テストプリントする。いい感じ。

献立、麻婆はんぺん、アスパラバター醤油。妹がピザを買ってき、それも食べる。うまし。

夜、完成を祝って同人メンバーで通話。自分の実感をもとに、己の言葉をひねりだして話すひとたちのことをわたしは信頼するし、尊敬する。3時ぐらいまで漫画や思想や創作の話をし、たのしい気分で寝る。奥野紗世子の「小説で恋活したい」は真理だという話をした。はやく単行本でないだろうか。


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夜、ひき肉キムチミルクスープ。塩を盛大にこぼし、しょっぱくなってしまった。昼間、西瓜を食べ、夏らしい気分になる。ネットプリントを試し刷りにコンビニまででかけ、汗をかく。もっとちかくにあれ。

べつの日の献立、カレー。玉ねぎ、ピーマン、ズッキーニ、豚ロース薄切り、トマト缶。ターメリック、クミン、コリアンダー、カルダモン、クローブ、フェヌグリーク、カイエンペパー。うまい。

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ゴミ、都市そして死』、滝口悠生『死んでいない者』を読む。登場人物がいっぱいいる戯曲を、それ自体としてたのしむ技量がわたしにはないのではないか?と思いながらも、それぞれの台詞の切れ味などをたのしく読んだ。どうしても誰が何を言っているのかの整理がつかないままにテキストを読んでしまうのだった。後者もたくさんの登場人物があらわれ、とくにこのひとが主人公というわけでもなしにあるひとりの死者を空虚な中心としてそれぞれ好き勝手に意識をのばしてしゃべりちらす作品だが、「誰が」が明示されている前者のほうが脳がこんがらがるのはなぜなのか。全体と個の関係性を考えたとき、戯曲においては話者の名前が記されることによって、それぞれの個に重きが傾くのではないか。小説では個が全体にもっと溶けこんでいる印象がある。以下は『ゴミ、都市そして死』における好きな場面。

フランツ・B お前が痩せぎすだから男に馬鹿にされるんだ。もっと食うんだよ。目方でお前らの値段も変わるんだ。何年も前からそう言ってるじゃねえか。だが俺の言うことを聞いてたのか。
ローマ・B 聞いてるわ。貴方が話すことは何だって聞いてるわ。夜中だって貴方の寝息の意味を探ろうとしてるのよ。
フランツ・B なのにこれっぽっちも俺のことを分ってねえな。

ミュラー 正しい度合いで誇張すれば必要な表現にもっとも近づくんだ。
ミュラー夫人 出まかせだわ。

ローマ・B 真実は言わないで、それでいいのよ。真実は痛いもの、嘘だけが生き延びる力を貸してくれる。

ローマ・B 軽蔑のあるところに愛なんてないわ。
V・ヴァンデンシュタイン嬢 それが間違いだっていうのよ。軽蔑のあるところにだけ愛が存在する権利がある。

こう並べてみると、極端な断言がわたしは好きなのかもしれない。断言肯定命題(谷川雁)だ。ほか、第5景の、娼婦である妻が太客のユダヤ人とおこなったセックスをめぐって交わされる夫フランツと当の妻ローマのやりとりもよかった。

『死んでいない者』も多数付箋を貼ったが、ここでは2箇所だけ引いておく。

 たいした音もせずにあっさり栓は開いた。昔おじさんに教えてもらったんだよ、とダニエルに瓶を渡しながら紗重は言った。そのおじさんが今日来ているたくさんのおじさんのうちどのおじさんなのだかダニエルにはわからなかったが、たしかにビール瓶を窓枠にあてがっていた時の紗重は、所作や姿勢がなんかおっさんくさかった。あるいは故人も、あんな動きで私たち夫婦の出会う前や、生まれる前から、この世を歩き回っていたのだろうか。それを見ることはもう絶対にないのだ、とダニエルは日本語で思った。

「日本語で思った」という結語。すごい!と驚嘆した。英語を母語とするひとが、というか、複数の言語を習得しているひとは、思考も複数の言語においておこないうるのだから、書かれてみればそうかと納得できるのだが、なかなかこうは書けないと思った。本作は、こうした思いがけない言葉=世界の見方のビビッドさに、ところどころで目を奪われる作品だ。その前の、動作と場から時空を遡及していく意識ののびかたもたのしい。紗重・ダニエル夫妻はいま、故人をめぐる多くの親戚や友人たちとともに、通夜の会場である地区の集会所に身を置いている。この環境によって自然と思考は過去へと送られ、夫は妻の後景へと目が向くようになるだろう。「なんかおっさんくさかった」のくだけかたにも思わず笑顔になる。

 そのさらに向こうにはゴルフの練習場があった。こちらはネットで囲まれた高い空間全体が闇のなかに浮かび上がるみたいにぼんやりと光っている。打たれて飛んでいるゴルフボールは見えないが、照明がついているのだからきっと誰かが球を打っているだろうと思える。しかし実際には誰もいなくて、明かりがついているだけの練習場に球が飛び、誰にも気づかれず人工芝の上を転がっていた。誰もいないことを誰も見ていなかったし、誰もいないのに飛んでいる球も、川のこちら側からは見えず、誰も見た者はいなかった。よく見たらもっとずっと手前を飛んでいるだけの夜の虫か、それとも夜の鳥だったかもしれないが、飛び去ったその球か虫か鳥かを、いつどうやってよく見ればいいのだろうか。

ここに書かれている言葉は、いったいだれのものなのか? そんなふうに思う文章が本作には多く挟まれる。上記もその一例だ。このくだりがある「4(章)」の前の「3(章)」では、主に知花と言う高校生の少女の視点が文の中心に位置しており、章末が「ホールを出ていった」とおわるので、その流れで集会所周辺の地勢を俯瞰するような描写のつづく本章を、読者は彼女の視点を引き継ぎながらここまで読みすすめていくが、特定の固有名があらわれるのは抜きだした箇所のさらに先、故人の友人「はっちゃん」がゴルフに対する抵抗感を吐露する場面まで待たれる。だが、先に引用した文章は知花の言葉でも、はっちゃんの言葉でもなさそうである。まさに浮遊するように物を語る「眼」が、夜の川辺をただよい、ゴルフの練習場を遠目に確認したのちに、場内に急激にズームアップして、そこに誰もいないにもかかわらず球が自ら飛んだり転がったりする非現実的な光景が幻視される。さらには、その「誰もいない」状態を誰も見ていないことが直後に明かされ、「川のこちら側」とあるように物語る「眼」はそれをじっさいには見ておらず、空想していることも示されることになる(「しかし実際には」と書かれていることがさらに理路にひねりを加える)。この入り組んだ構造を、さらに複雑化させるのは、その後につづく虫や鳥に好き勝手に飛びまわる球をかさねた上で、それらのすがたを「いつどうやってよく見ればいいのだろうか」と問いに付す点にある。こうした起伏をしちめんどうだと思わずにたのしいと踏みしめることができるひとは、きっと本書のよい読者になれることだろう。ふわふわと漂流する眼は、もちろん死んで(しまってもう)いない者=幽霊のメタファーとしてもある。