仰天的(ギャオギャオ

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夜、ぎょにそ、チーズとオリーブ、鶏皮とエリンギの五香粉炒め、ちょううまい、オリオンビールの75ビールとホワイトベルグをひと缶ずつ、前者ははじめて飲んだが香味野菜みたいな個性ある風味がする


カルパスを食べていたら中身のちゃんとつまっていないやつが2本もでてきてふぁっくのきもちになった。ゆるされざることですよ、これは。

食後にカリカリ梅。ちいさいころ、梅干しの種を割って仁を食べるのが好きだった。

よだれをだらだらたらしながら起床。ゴミだしチャレンジに成功してゆき、洗濯機もまわす。洗いものもする。ごはんはパセリ、レタス、豚肉、チーズ、バターをほおりこんだブルグル。今日はもりもり映画を観にゆくぞとやる気をたぎらせる。洗濯機のふたがバキバキになっており、崩壊の日がちかそうなことを悟る。何年ものかもわからない、古い機種である。洗いおえた洗濯物を干していると、バキバキして洗濯槽に落下していたパーツがぽろぽろこぼれ落ち、その確信が増す。

家をでると、所沢ナンバーの軽トラがバックしながら自転車を轢き倒し、なにごともなかったかのようにそのまま去っていく。わたしのうしろからやってきたママチャリの、後部につけられたチャイルドシート(?)に乗ったこどもが、あれはだめだよとその行為を非難する。

アディナ・ピンティリエ『タッチ・ミー・ノット』とビー・ガン『凱里ブルース』をイメフォで。くるしまぎれとも思えるようなサブタイトル(ローラと秘密のカウンセリング)にもあらわれているとおり、前者は売りこむのがむつかしそうな映画だと思った。ひじょうに手のこんだ、構成的なつくり。キモいサウンドトラック(ほめています)や、クィアへのまなざしがファスビンダー的だと思ったが、ファスビンダーが好きなひとがこれも好きなのかと問われると必ずしもそうではない気がする。わたしの好む奇妙な映画ではあるのだが、どうもまじめなのだ。

本作では、性を鍵にしたマイノリティの心身の開放というエキセントリック(と見なされてしまいがち)な題材が、錯綜する時系列や、同じ構図の執拗な反復、本作を撮る監督やスタッフといった撮影者の位相の導入など、技巧的な作法によって表現されている。中心的な被写体にのみフォーカスをあて、その他背景をぼかす撮影スタイルが印象的で、ぼかしもあいまった画面の余白のおおきさが、そのままわたしたちの理解の余白として引き渡されているように思う。内なるドアをやぶりつづけ、ひとつの解放的なムードのなかで幕を閉じるけれども、わたしは終映後に流れた監督やキャストたちへのインタビューで言及されたようなきもちにはならなかった。本作はベルリン国際映画祭金熊賞を獲っているが、多分にPC的な面があるのではと思ってしまった。

後者はまずイ・チャンドンの『ペパーミント・キャンディー』のことを思いだした。哀愁ただよう主人公の中年男、現在におおきく横たわる過去の出来事、匂い立つノスタルジー、時を司る列車……。似た作品だとはまったく思わないが、影響下にあるのはまちがいないように感じる。あまり内容をしらずに観にいった(『タッチ〜』もそうである)のだが、途中40分以上にもわたって展開される驚異的な長回しにひじょうに興奮した。GoProでもつかっているのか画角にきもちわるさがでていて、それもまたよいアクセントとなって画をつくっている。そういう粗となされるようなものがのこされていて、けっして技術的に巧いわけではないのだが、随所に画へのこだわりや撮影の工夫が感じられ、とらえられる中国の片田舎のもつ風土のよさもあって惹きつけられる映画にしあがっていた。

前半部で印象的なのは、どこまでもつづいていくようなパンが使用されるシーンの数々だ。重機がショベルを回転させながらゆっくりと段差を降りてその位置を高さごと変えるところ、壁に投影された列車がカメラのうごいていく方向へと延々と走り抜けていくところ、玉突き場において場の高低を横移動によって突破して時空が一変するところ……。カメラ自体の回転運動が、作中にでてくる風車、車輪、時計といった数々の「まわるイメージ」ともあいかさなり、時間を撹拌させていく。ひじょうに練られた作品であると思った。

幾度も挿入される詩の朗読と、イメージの幻影の先に漂着するラストショットもすこぶるすばらしい。ここまで観てきていればどうなるかはわかってはいるのだが、どうしたってうちふるえてしまう。『ロングデイズ・ジャーニー』を観逃してるのが悔やまれる。ユジクでいまやっているけれど、上映設備的にたぶん2d版なのだよな。アップリンク同様、パワハラ云々の話がでているのも気がかりで、足を運べない。

しかしパンフはなんでこんなぎちぎちに行間の詰まった&信じがたいほどがたがたの読みにくい組版と、日本語文法のぶっこわれた原稿になってしまうんだろうか。近年まれに見るひどさだと思った。パンフに怒るのは『臍帯』以来じゃないか? 編集者はいったい何をしているのか(これはむろん自分自身に向けてもいっている言葉です、ひじょうに鋭利なブーメランになります)。題字がでてくるまでのページネーションはいい感じなのにな、、よい映画のパンフにしょっぱさが見えてしまうのはとてもかなしい。