怒られのデバフ/居間の滅却

献立、ベーコンと人参のキッシュ、味噌マヨきゅうり、生姜きゅうり、ボイルドそせじ。

朝、チーズピーマン生姜炒飯。へんな夢を見つつ、早起きしたので時間を持て余す。無料公開されている『ゴールデンカムイ』を読んで時間をつぶし、東京へ。谷川雁の「東京へゆくな」を思い浮かべながら、バスではだいたい目をつむっている。冷房がキツイ。

到着。ゴキブリの歓待は今回はなかった。インディーバンドのTシャツを着たひとを改札の前で見、東京!となる。滞在は前回と同じくHQハウスにお世話になる。Qさんの青とんがバカほど効いたアラビアータ風うどんで歓迎され、さっそくビールを飲み交わす。さらに夜が更けるとHさんがSさん、Mさん、Sさん(?)を連れてやってきて、またおもしろナイトがはじまる。泥酔してゲロゲロするひとらを傍目に、ひさびさの酒にあてられ、わたしはひとあし先に布団でダウンする。

めざめ、茄子の梅昆布ポン酢スパゲティをつくる。大葉とみょうが、いわし節入り。うまい。しばらくダラダラし、ユーロスペースへ。10ヶ月ぶりとかの映画館だ。鬼のような照りつけに、道中身がぢりぢりとほろびる。映画館の前では『由宇子の天秤』の監督が自らフライヤーを配っていた。観たのはメリーナ・レオン『名もなき歌』。ペルーの映画で、監督の第一作とのこと。スローモーションや移動カメラなど、画づくりに映画的野心がみちていて好感をもった。フィルムのコマのような開口部のあるアパートメント(?)を上下にすべったカメラワークや、砂丘のような道を子を失った夫婦が手前にくだってゆくスロウかつダークな画面、あまり裕福ではないだろう港町をバックに、ボートを並走させて撮った会話シーンなど目をみはるカットがいくつもある。1988年のペルーを作中の時代としているが、フレームワークやロケーションによってどこか異界めいた空気が終始スクリーンにはただよっており、そこにテロやインフレといった政情不安を形成する時代のムードがないまぜになってモノクロ/スタンダードの画面に充満していた。話自体は弱いのかもしれないが、「映画」にとってははっきりいってそんなものはどうでもよろしい。警官が店の前に3人も立つパルコの田中そば店でラーメンを食い、HMV books(ワンフロアつぶれている!!!)を冷やかして富士見台はアルネ543に向かう。今回のショートステイの眼目である排気口『午睡荘園』を観る。ついーとしようと思ってしなかった断片をまず貼る。

加害性の根ざす場所が被害の暗幕のもとに埋もれていることが明らかになるとき、それまで原理主義的かつ強固な絶対性に支持されていたはずのふるまいは、いとも簡単に瓦解する。無理の積み木をいくらかさねてもそこにできあがる城は腑抜けのまぼろしであり、懸けることのできる実態は築かれることがない

その脆さを表層にとどまる身体にかさねれば、関係性の元手となる時間に突き当たることになる。そのかぎりない薄さに肯くことは、未来の頼りなさにそれでもなお一縷の望みをもとめることと同義であり、ろくでもない過去を背負いなおすためのしぐさでもある。だがどこまでいってもそれは重さを持ちえない

上記の「表層にとどまる身体」に関連して、役者がそこで何を考えながら舞台に立っているのか?がひじょうに気になった。おぼえた台詞を、おぼえた身ぶりとともに演じるだけでは、観客にイメージを胚胎させることはできない。同時に、複数名がそこで場をつくっているときと、一対一のときのコードのなめらかさがまったくちがうものとしてわたしの目には映っていた。フラットとデコボコの噛みあいは上演に起伏をつくるための武器にもなるが、下手をすればシーンをちぐはぐに見せてしまうネックにもなる。本作における「瓦解」のムードは抜かりなく暗幕に隠されてあるべきで、であるならばこの落差はかぎりなくちいさなものとして均されることがのぞましい。なだらかな道を歩いて行った先にとつぜん深い穴が穿たれているのと、悪路の延長線上に窪みが開いてあるのとでは、歩行者の感じる印象はおおきく異なるだろう。わたしたちが嵌まる穴のそばで、突如モノローグ的な語りを目の前の他者へと向ける佐藤あきらの演技が、本作における唯一の感動的なパフォーマンスだった。

また、ここでの演技態は、『謎は解くからだを休めることなく』で試みられてついに達成されることのなかったものではないか?とも思った。この強度(その因子が演技態自体に根ざすものかどうかはさておき)が、全編を通してテキストを支えることができれば、まったく別様の光景がそこに立ち上がったのではないだろうか。ポストドラマであろうが、ドラマであろうが、岡田利規の演劇論はその実現に役立つだろうと思った。

「時間」の「かぎりない薄さ」の話。ひととひとの関係性の極限とは何か。愛である。本作では、組織における無数の恋愛関係が屋台骨となっているが、それが身体化されていないことが気になった。先の引用ではそれを肯定的に見ようと試みているが、やはり否定すべきではないか?というのがわたしの現時点での落着点だ。彼ら彼女らの過ごした時間の総量が、芝居にあらわれていないように見えてしまったのだった。これはたがいの身体を触れあわせればよいという単純な話ではなくて、たとえば3場でソファに座るレミコが木戸の肩にもたれかかるシーン。あれをそれなりの時間を過ごした恋人たちの身ぶりとして見なすことができないという点にその理由がある。唯一子供=未来を身ごもるに至った、もっともつよい関係性の表出をそこに見ることができるが、その事実を支えるにはあまりに心許ないからだのあずけ/受け入れかたのように感じられた。その不安定さを崩壊の端緒としてよしとする見方もあることは承知だが、なまなましさをも前面に押しだす場面とわたしは理解したので、ふと脚先をかさねあわせたり離したりするしぐさが含まれていたら、などと思わずにはいられなかった。そこにある関係性に思いを馳せるために、わたしたちは彼ら彼女らの言葉を聞き、うごきを目にするわけだが、暗闇で交わすくちづけの手前で、さらに踏みこんだ具体性を看取したかったのが正直なところだ。

関連して、1場でのやりとりをべつの角度から照射する2場こそが、組織内に結ぶことのできるさまざまな関係線をはっきりと引くものとして備えられているが、そこで撚られた糸が頼りなく見えてしまっては、見えかたの変化にともなうおどろきも、瓦解のショックもいくぶん弱められたものとして生じることになる。カタストロフ的快楽は、ボロボロの城がくずれるよりも、堅牢に見える砦が崩壊するさまにつよく宿るのだから。

舞台の中心で夢見るレミコと対をなす、起きたまま革命の夢を見るフミがわたしのもっとも心惹かれた人物だった。舞台上でもっとも「ショッカー」を精神の面で体現しようとするが(実践の面で体現するのは、身を戦闘服につつみ、真っ先に銃弾を放つMENDORIである、一方で精神においてはファッショニスタ文士を目指すテツヤ同様複数の夢を同時に抱えている、さて雌鳥は卵を生む存在だが、彼がそのうちに懐胎しているのは何か?)、やがてそのもろさがあらわになる彼女は、ショッカーという組織自体の暗喩としても機能する象徴的なキャラクターだ。この人物をどのように立ち上げるかが作品を左右するといっても過言ではないと思うが、本上演においてはいささか熱量が過多だったのではないだろうか。テキストを読んだときにあった孤立性とそれにともなうさびしさのようなものが、ある種の「必死さ」によって強調されるのではなく、かき消されてしまっている感があった。そういう上演ももちろんアリだろうが、わたしが文字の上に幻視したのはもっとひんやりとしたフミで、その冷気こそが「狂気」に転じる要素として台詞以上にものを語っていたのだった。その内実に差異はあるにせよ、熱意をもった戦闘員たちのなかで単に冷めた風にふるまう(サキエ)のでもなく、夢中に居座って無言を突き通す(レミコ)のでもなく、つめたく「正しさ」を説くフミを見てみたかった。さすれば、「間違った世界」に対する反意を通してではなく、ただこのまま覚めずに夢のなかにいたいという念いを通して、置き去りにされた者たちが共振するラストも、またちがったひびきかたをもつに至ったであろう。


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観劇後、Zさんとビールを飲み、Tも呼んで演劇の話をし、またラーメンを食べる。お腹がいっぱいで残してしまう。かなしい。移動して、またべつの面々とも話す。たのしい。

めざめ、回転寿司屋であら汁と寿司を食べる。うまい。赤身がよかった。〆の鉄火巻きがぶりんぶりんしていた。また、サイズのちいさな呪いの寿司もあった。おかげで、口の端を噛んでしまう。空が青いよ、うえはらさん。