やがてあたたかな愛の花

昨晩お酒を飲みすぎたのでぎゅるぎゅるにお腹を下す。朝、ツナチーズオムレツとクラッカー。排気口の公演が好評のようでうれしい。こんな事態でなければもっとたくさんのひとに観てもらえたのだろうにと思うとくやしいきもちにもなる。この記事があっぷされるころには終演している。舞台芸術はあっという間の時間を走り抜ける。

東京オペラシティ アートギャラリーにて「ドレス・コード?」展。演劇が入ってくる後半のボリュームもあって、思っていたよりも時間をかけて観ることとなった。2時間ちょいくらい? わたしがいちばん好きなカルチャーはファッションで、とはいえ生まれて以来ビンボー生活がつづいているのでまったくもってその愛を思う存分に注げずにいるのだけれども、ハイブランドの服をみて/着てよろこぶみたいな感性はわたしにはなくて、ただただかわいいアイテムに身をつつんでいたいという欲望があるだけなのだなと名だたるブランドのアーカイヴをながめて思った。コムデギャルソンのランウェイにでてくるような服はみていてとってもたのしいし、着てもわくわくするのだろうけれど、どう考えたってデイリーにはユースできないよなと常人顔がでてきてしまう。同時に、ああいうひとたちがいっぱい街を歩いている世のなかのほうがぜったいにいいと思う。おれは荒ぶりときめくドラァグクイーンになりたい。

迷彩柄の服を着ているひと、ドリンクのカップをもって歩いているひと、上半身裸のひとなど、ひとつの街に一定時間滞在して、あるテーマのもとに同様の格好をしたひとを撮影し、それを壁いちめんにずらりと並べたハンス・エイケルブームの写真作品や、九州の成人式、異色肌ギャル、田舎のじいちゃんばあちゃんの作業着ファッションといったニッチを突く都築響一の選出した日本のローカルファッション写真もおもしろかったが、もっとも目を引いたのは展示の掉尾を飾るチェルフィッチュの映像演劇で、そこには熊本や札幌といった地方でやっていた頃から気になっていたがゆえの、やっと見れたという感慨も含まれてあった。4枚のスクリーンと1枚の字幕用ディスプレイ+スピーカーからなる映像インスタレーションで、まず観客は展示室の前に掲げられたステートメントと対峙し、部屋から漏れでる音に耳を澄ますこととなる。

3.11の経験がもたらしたひととひとのあいだに否応なく走る緊張について書かれたテキストを読んだのち、スクリーンによって細長い廊下のように区切られた展示室に足を踏み入れると、その横並びになったうちのいちばん手前のスクリーンにはうずくまったはだいろの男が映っていて、服をくれませんかとわたしたちに呼びかけている。やがて彼は立ちあがり、あ、下は履いているんだという安心感をわたしに与えたのち、向こう側へと消えてゆく。いちどには概観できない幅をもったそのスクリーンのなかを、複数のひとびとが行き来し、こちら/あちらの境界を意識させる言葉を投げかけては去っていったり、こちらがわのわたしたちが彼らに向けてカメラを向けるように、向こう側でもスマホのシャッター音が鳴らされたりフラッシュがたかれたりする。映像/現実の境界線、4枚のスクリーン間の境界線、映像内の人物間の境界線、観ているわたしたちのあいだの境界線……とさまざまな線がそこにはあり、呼びかけの言葉がわたしたちの心中に起こす感慨がその線上でゆらゆらとゆれうごく。社会性を帯びたステートメントを事前に読んでいるわたしたちは、そこに批評的な光景を読みとる。

なおかつ、曇りガラスのような質感のスクリーン/映像には曖昧な像だけが映っており、そこでは明確なかたちがむすばれることはない。向こう側で起こることは、すべて靄がかかったようにしか見ることができない。何かが破られ、何かが投げ捨てられる。何かが横切り、何かが行為されている。そうしたなかで、はっきりとした輪郭をもってわたしたちに訴えかけるのは、音である。英語字幕も与えられたひとの声と、動作のたびに鳴る衣擦れの音が、そこにたしかな存在をかたちづくる。途中、ふたりの人物が服をつかみあったり、袖口に手を入れあったりするような場面があり、さらにはそれがまるで口淫しているようにも見える体勢がとられるシーンへと展開していって、ひじょうに官能的だと思った。これはそのシーンが、ということではなく、この作品全体がそうであるということだ。見えないこと、触れないこと、嗅げないこと。制限された情報がわたしたちの感覚と、想像力を試している、とまで書いて、こんなことさいきんどこかで書いた気がするなと思い至る。原美術館で体験した、小泉明郎の作品についてである。記事ではきちんと岡田利規の名も引いていた。呼びかける声のつよさを思う。


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オペラシティをでたあとは、西新宿五丁目駅まで歩いてゆき、六本木まで行ってミッドタウンデザインハブの「日本のグラフィックデザイン2020」。こういう「デザインの展示」をみていると、いろんな観点からもやもやとしたフラストレーションが自分のうちにたまってゆくので、ひとりじゃなくてだれかと行きたいなと思った。といいつつも、観に行くのをめちゃくちゃたのしみにしている菊地敦己展はひとりで時間をかけてゆっくり観たい、ここにでている作品も抜きんでてよかった。1_wallの公開審査会のあとの打ち上げの折、菊地さんが推してくれたおかげでわたしがファイナリストにのこったという話を聞いて以来、そうやってわたしを推してくれたひとらに対して、わたしがちゃんと「やっていく」ことによって報いたいというきもちがつよくなった。わたしはわたしのことを信じつづけるから、あなたもわたしを推してくれたあなたのその目を、どうかずっと信じつづけてほしいという意志。わたしは、かならず、やっていく。

ピラミデとcomplex665もまわり、ブックファーストに寄ってハントケの本を買って帰宅。閉まっているギャラリーも多く、予約制のところがひとつあって入れなかったが、ほかの半分くらいのところは問題なかった。名前を書かされたりしたのも1箇所だけで、こうした画一的じゃない、グラデーションのさまがいいなと感じた。まわりながら、こうしてギャラリーをめぐるのも、東京にいるうちはもしかしたらこれでさいごかもなと思ったりする。