シャイガール&シャイボーイ

排気口『いそいでおさえる嘔気じゃない』@阿佐ヶ谷アートスペースプロット。これまでいちどもおこなわれることのなかった再演含みの、3本立てによる短篇公演、さらにはソーシャルディスタンス仕様という、はじめてづくしの今回は、初演時に比べて肉を削ぎ落とした骨身むきだしのソリッドかつ、テンポを速めたスピーディな展開によって物語のエンジンをぐんぐん駆動させながら、おかしみとかなしみにみちた言葉のきらめきを劇場内に次々に乱反射させていく、まさに排気口入門にぴったりの内容に仕上がっていた。

俳優たちの平均点が高い値で安定しており、演技における崩壊点がかぎりなくしぼられていたのも好印象で、なかでも『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』の東雲しのと小野カズマ、『右往私達左往』の村上奈々子あたりを特筆しておきたい。東雲の、観るものを問答無用で笑顔にさせるようなハイのたのしさはいうまでもなくすばらしいのだが、ロウな部分を演ずる際に観客にコンセプションを図ろうとする霊気の放出が起こっており、わたしはそこに青柳いづみ的な舞台上における身体のありかたをダブらせて、いたく感動したのだった。これはわたしの勝手な考えだが、ぜひキャラクター芝居に回収されない方向に歩んでいってほしいと願う。坂本和演ずる幼く純粋なわんぱくフリークス・タカシと怪演ぶりの二大巨頭(極と極とが遠く隔たった振り幅のなかをのっしのっしと快活にうごきまわる『明るい私たちのりびんぐでっど』のポポちゃん/長谷川まるを加えて三大としてもよい)ともいえる売れない場末のカリスマホスト・サブジは、パラパラを踊りながらのいきおいしかない登場とともにその場に嵐を起こすようなきょうれつな存在だった。あのようにしてたったひとりでグルーヴを起こせる俳優は、ほんとうに稀有である。3作すべてに出演する小野カズマは、他作でも秀でたスイッチャーとして機能していたが、やはり本作での理知をそなえた台風のような暴れっぷりをわたしはいちばんに推したい。村上奈々子のきらきらした演技には、場の空気を変えていく質感があった。声の音の粒が一音一音際立っているのだ。『明るい〜』ではちょっと一辺倒すぎるように思えた直進力が、ここではよい方向へと作用し、中村ボリ演ずるかおりをまっすぐと照らす、ひとつの光となっていた。わたしはそこに、東京デスロック/ヌトミックに所属する原田つむぎの途方もない「明るさ」を思い起こした。

持ち前の体格を駆使しながら初演とは見ちがえるようにちからを発揮していた坂本和や、かろやかな重心をもって受けてはかえす佐藤あきらのさりげなさを身に宿らせた好演も見逃せない。中村ボリの諦念に発する悲哀の色調は、掉尾を飾る作品のムードを静かにかたちづくっていた。前回の公演の際にも書いたことだが、劇団メンバーの成長に拍車がかかっている。もっと観たり読んだり演じたりして、軽々と場をつかめるような存在になっていってほしい。ステージ上だけではなく、客席も含めた場全体を、指先や足先や目先や口先で沈めたり浮かべたりつぶしたりひろげたりできるようになってほしい。べつの言葉でいえば、おおきな劇場でも時間と空間をコントロールできるような身体を手に入れてほしい。むろん、満を持しての水野谷みきの復活も心待ちにしている。田んぼくんのバトンをしっかりと継いだ森吐瀉物の「セイ」や、東雲さんとは異なるスタイル(わたしは今作を推す)でレミコを現出させていたるい乃あゆの立ち姿もよかった。野蛮と繊細を二重のものとして自らの上に走らせる亀井理沙と、意図された軽薄さを存分にたたえた四家祐志の隙のない正確さも、今回の白眉である『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』の屋台骨をしっかりと支えていた。

また、「どこかで見た話と同じ」という感想も見かけたが、いわゆるクリシェとされるような展開を素材にしながら、みずみずしい断面をわたしたちに魅せてくれるその調理のテクニックにも耳目を奪われる。短篇公演ということもあり、長篇に比べて余白となる部分が少ないがゆえの盛りつけかたではあるものの、そこにすがたをあらわした色鮮やかなキュイジーヌをひと匙口に含んでみれば、ていねいで繊細な下処理が加えられていることが嚥下しきるまでのあいだにわかるだろう。食前酒も前菜もなく、メインディッシュが3つ立て続けに運ばれてくる構成に胃もたれしてしまったひともいるのではと推察するが、そこは「嘔気*1」を「おさえて」、「長篇公演まで待っていて」と、劇団にながらく伴走してきた身として自信をもっていうことができる。本公演が排気口のエッセンスみなぎるすぐれたものだったことはいうまでもないが、菊地穂波のテキストの本領が発揮されるのは、まちがいなく長篇作品においてなのだから。

これまでは公演後、だいたいついったで感想をついーとしていたのだが、今回はグッズの制作にも関わったこともあり、事前の宣伝の段階で請負デザイナとしてというよりも内部のスタッフ的なふるまいに舵を切っていたので、そのまま感想ついーとを投下してしまうと、どうしてもそこに内輪めいた雰囲気がでてきてしまう気がし、ほとんど陽の当たらないこの場所に公演に対するもろもろを書いておくことにしたのだった。「感想」ということでいえば、そもそもフライヤーのデザインワーク自体が作品に対する「批評」としてあるわけで、たんぶらーにあげているコメントと合わせて見てもらえれば、それこそが作品への最大のレスポンスなのだともいえる、とまで書いて、だがそこには俳優と劇場を介した「上演」に対する視座が欠けていると思いなおし、この文章は主にその部分を補足するものとして書くことにした。その交差する地点こそをデザインにおいても射抜いていかなければならないと襟を正す思いに駆られたのと同時に、まいどのついーとで俳優に触れることが少なかったので、ここではその反省の念もこめたつもりだ。

それと、公演後に単なるやっかみとしか思えないようなアンチコメ的スタンスのついーとがあらわれるに至っては、ちょっと感動的な気分にさえなり、より遠くへと届きはじめているといううれしさがあった。わたしもちまたで絶賛されている作品がぜんぜんダメだったとき、ついやってしまいがちなことなので、言語化を放棄したその内容と態度はともかく、動機自体はわかるなあと思った。これは出演者である長谷川まるさんともちらと話したことだけれども、感想を書いたり話したりするひとたち──というよりも、もっと話をひろげて、言葉を用いるひとたちとまでいってしまいたくなるのだが──は、「言語化」する際にもっともっと苦労してほしいと思う。自身がたしかに抱いたきもちを、既存の構文や、ふわっとした便利なワードに簡単に明け渡すなよといういらだちが、わたしにはつねにある。なんでそこで手を抜くのかとキレそうになる。こんなことはとうてい無理な話で、わたし自身もその不可能性に対峙しつづけており、もしできたとしてもより過剰に気が狂っていくだけだとは思うのだけれど、何かを観たり読んだり聴いたり味わったりした場合にかぎらず、読む・書く・話す・聞くという言語を介した行為の過程において、厳密に言葉を選び抜いていく、あるいはきもちを適切な言葉に変換していく姿勢は、絶え間なく維持していたいと、ひとりの話者として、書手として深々と胸に刻んでいる。そしてその歴史性を帯びた、つねに新しい赤赤とした生傷は、紛れもなくこの舞台上にもきりひらかれていたはずであり、その相貌を「文学」の名で呼ぶことを誰も咎めることはできないだろう。否定の一語によって貫かれた嘔気の光景は、その反転する力学によって、否応ない亀裂を運命づけられているのだ。


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夜、2時間半かけて「ガヤ」からべつの「ガヤ」まで、長い道のりをやーてぃとふたりで歩いて帰る。無数の道路を横切りつづけ、ときにはぼーぼーの草むらを踏みしめつつ、遥か上空では夜が明けていくのを感じながら、東京を北から南に縦断する。家に着き、熱帯夜のまとわりついた汗まみれのからだをシャワーでふりほどいて、ここ数年、というよりも人生でいちばん深い、黒々としたくまを眼下につくって、ただならぬ熱波のなかをスーツに身を潜ませながら出社する。

*1:終演後のあいさつでは「はきけ」と発音され、ツイキャスでも「はきけ」という音を耳にしたが、「おうき」じゃないのだろうか。