あいだに挟まる

乗代雄介『皆のあらばしり』(2021)。なんどもわらった。痛快だった。『ミック・エイヴォリー〜』収録の掌編たちとはムードもテイストもちがうのだが、かといって阿佐美景子サーガとも趣を異にするユーモアが小気味よく、竹沢の件に代表されるエンタメじみた展開のしかけをたのしんだ。そんななかでも、これまでの作品にも通底する「書くこと」についての以下のような記述にやはりグッと惹きつけられる。

「(…)そこらに立っとる石碑石仏墓石を見んかい、伝わらんでも人の思いが残る法もあると知らせとるがな。その思いを後世の人間が汲んでやれば、当人たちも報われるっちゅうもんやないか。せやからわしも、さすがに石を立てるわけにはいかんけど、渡そうとして渡せんかったもんは、何でもかんでも埋めることにしとんねん。風化せずそこに留まったもんをいつか掘り起こした誰かが、そこに込められた感謝の思いを察してくれるかも知らんからなー」

「書いたもんはすぐに読んでもらわなもったいないと思うんが大勢の世の中や。ひょろひょろ育った似たり寄ったりの軟弱な花が、自分を切り花にして見せ回って、誰にも貰われんと嘆きながら、いとも簡単に枯れて種も残さんのや(…)」

自身の制作物をこれ見よがしに喧伝するのではなく、いつかの誰かへ向けてひそかに埋めておく。それは、誰も目を向けることのないような茂みのなかに埋められた「石」を発見し、そこに思いを馳せることのできるにんげんの所作である。ひとりの「未熟な同感者」として、肝に銘じたい姿勢だ。

ブルダック餃子は豆乳とチーズで煮、うどんにして食べた。

『OZ ECHOES: DIY CASSETTES & ARCHIVES 1980-1989』(2021)という、オーストラリアのポストパンクバンドのコンピがめちゃくちゃいい。ヤング・マーブル・ジャイアンツのムードを感じる。なかでもWrong Kind of Stone Ageの「Ravi Dubbi」のダブい質感がベリナイス。

西尾大介ふたりはプリキュア』(2004)11-12話。なぎさの父はここにきてはじめて登場? 子安が声を当てていた。水族館回ということで、トロプリが思いだされ、なおかつ美術館回を反復するような水没展開もあり、「閉所での水」は恐怖だなと思った。弟が戦闘に巻きこまれてしまうことによってなぎさが激昂し、今後数々のプリキュアの口から発される「絶対許さない!」がはじめて口にだされる記念すべき回だが、そんなドラマティックな作劇のなかで、ショー用の水槽の水をすべて飲み干し、サメやマンタ、ウツボとキメラのように合体するゲキドラーゴのふざけがいい味をだしていた。マーブルスクリューを放つ際のバンクでも、なぎさの瞳に涙を浮かべたり、ほのかの手をいつもよりもつよく握りしめる描写が挟まれたりしていて、その細やかさにだいぶ感動した。

つづく12話は今回と対になっていて、これまた戦闘に巻きこまれてしまったおばあちゃんの危機に対して、ほのかが「絶対許さない!」と言い放っていた。おばあちゃんとポイズニーがはじめて対峙する際の緊張感を演出するカット割が冴えていた。ゾンビ化した街の人々がかなり恐ろしく、その不気味さには高田築っぽさを感じた。原画に平林佐和子の名前があったのもおどろいた。最新作『デリシャスパーティ♡プリキュア』(2022)のシリーズ構成である。

「戦争は良くないなと 隣の奴が言う」(syrup16g「Hell-see」)の冷えたアイロニーは、「平和」ボケの時代にしか通用しないなと、ロシア-ウクライナ開戦の報を見て思った。国連での各国のコメントを見てるだけで泣けてくる自分がいて、馬鹿みたいなセンチメンタリズムだと思った。だが、この馬鹿みたいなセンチメンタリズムこそが抑止のちからにもなり得るのだ(むろん、たやすくその逆にもなる)。2015年の安保法案反対デモの際、国会前にいた当時の恋人が某新聞のインタビューに対して「大切な人が戦争に行ってしまうことになるのはかなしい」というような返答をのこしていたが、このセカイ系にも隣接するような「隣人」を戦争に接続するリアリティは至極まっとうなのではないかといまさらながら思った。「お国のために」のリアリティなんてものをわたしはまったくもてないが、自身の家族や、大切なもの、場所などを失ってしまうかもしれないという恐怖やそこに起こる反発は共有することができる(そもそも、この延長が「お国のために」か)。国=わたしというネトウヨのメンタリティをもつひとは現状、なにを思っているのだろうか。

話変わって、大きな出来事が起きると、それに対する反応/無反応がSNSで可視化されるわけだが、その状況に接するに、そうした言説(戦争に対する反対声明、あるいはそれとはまったく関係のない「他愛のないつぶやき」)を披露すること(あるいは読むこと?)への抵抗感のようなものを感じる。かつてはわたしも無遠慮になんでも言ってやるぞ!という気概をもち、じっさいに生意気な文言をのたまっていたが、いまでは自己検閲の回路がバリバリにはたらいて何も言えなくなっている。何をしても、していなくても、大きなものに足を囚われているような感覚。インターネットに接続していることによって、あらゆることがらが「おまえも無関係ではないぞ」と差し迫ってくる。だが、わたしの生活はこれまでと変わりなくつづいている。家族は戦争にほとんど関心がない。しごとがはかどらない。


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しごとがはかどらないのは時勢がもたらす影響だけでなく、このところ父が早引きで帰宅し、すぐそばでモンハンをやるかYouTubeを観ていることもおおきな要因となっている。単純にうるさい。音声合成による解説動画とか観ているのも嫌。イヤホンをしながら校正作業をやるのはつらい。この環境があと1ヶ月もつづく。さいあくだ。

夜、炒飯。紅生姜・卵・そせじ・チーズ。食事の用意がひとりぶんだけでいいときの気楽さ。

10年代にはシリアに材を取った映画を何本か観ていて、あるいはインターネット上の「ゴア動画」などによって同時代の戦争の脅威を少なからず目の当たりにしているが、やはりそこには距離があった。対岸どころではない物理的なへだたりがあった。それに比して、隣国が戦争を起こすことの実在感はきょうれつだ。予定調和のように海に落ちつづける北朝鮮の飛翔体とはわけがちがう。端から核をちらつかせる態度を見ていると、今世紀の今後を思うにひどく憂鬱な気分になってくる。おれは「戦死」したくない。