とうのむかしにくるっているので/残光

タルトタタン(もどき)、うまい!!! りんごの甘酸っぱさのしみわたりが口のなかいっぱいに大波小波、タイダルウェーブ、果実の海嘯のあぶくがとめどなくはじけてはきえ、はじけてはきえする、しない、してたまるか。あまったピザ生地でピザを焼こうとしていたのだが、おなかが重いので今日の夕飯はこれだけにしておく。具材を決めよう、トマト、ほうれん草、お歳暮でとどいたそせじかハム? わたしが興味のある贈与の体系はお歳暮とかお中元とかそういうのじゃないんだよな。包子よりもピザのほうが上達がはやそうなのでしばらくピザ職人になるか、ホームベーカリーがほしい。

おまえのこれまでにしてきたクソのような経験をおれにかさねあわせるな、と思うわたしも、また同様の行為をしている。類と個のパースペクティブ。せんじつの思考と共感の話にかこつけていえば、可能なかぎり個に立ちどまることが思考であり、安易に類に流れることが共感である。自分に蓄積された記憶と経験のデータベースへの参照が、その回路をひらく。世のなかの99%のコミュニケーションは類を介して為される。


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ナイキのCMが炎上していることにショックを受ける。どこにその要素があるのかにわかには理解できないからだ。ゴッチにこんなリプライが飛んでいた。

コメント失礼します。私は不快に思いました。だって日本人の多数が差別してるかのように表現してますよね。ゴッチはcmに共感するということは、心のどっかで差別してたんですか?

あの映像を「日本人の多数が差別してるかのよう」な「表現」としてとらえるというのは、いったいどのようなメカニズムでそうなるのだろうか。そして映像に「共感」することが、「心のどっかで差別してた」ことにつながるというのはどういう理路によってみちびきだされているのか。これがいわゆる「ネトウヨ」一般の見解なのかとついったをながめてみると、「まるで日本人の多くが差別をしているかの様な印象操作だ」「何だ、この日本人がまるで差別しているかの様な左翼イデオロギーまみれのCMは」といったついーとが数千リツイートされていたので、おそらくはそうなのだろう。異口同音にはなたれるナイキへの反発の大半が、上に引用したついったイデオローグの意見をオウムのように口真似しているに過ぎないのかもしれないが……。もういちど映像を観かえしてみる。


youtu.be


重力を反転させていくカメラワークがテーマとマッチしているしカッコいいなとまず思うと同時に、「マイノリティ」に対するまなざし、が主題としてあることがわかる。それは他者からのものだけではなく、「わたし浮いてる?」や「もっとなじんだほうがいいのかな?」という台詞に象徴されるように自己に内面化されたものまで、双方向に自己を照らしている。加害性は、他者から降り注ぐものだけにやどるのではなく、そうした視線に晒された自身にもいつの間にか付随し、自己を縛ってしまうのだ。そうした抑圧的な「いま」への問いかけ、あるいはもう一歩踏みこんだ呼びかけとしてこの映像はあるのであって、それはここで描かれている「在日外国人」にかぎらず、もっと普遍的なもの──たとえば「BLM」でも、「性差別」でも、「沖縄」でも、「ネトウヨ」の言葉をそのまま借りれば「ウイグル*1でもよいが、あらゆる「マイノリティ」の置かれている現在──を問題にしているはずなのに、そうは受けとらないひとびとがたくさんいることにわたしはぜつぼうする。この状況を一挙に約めるべんりワードをつかうならば、「想像力が死んでいる」のである。

そのぜつぼうを踏まえつつ、さきのびっくりリプライについて考えてみよう。彼の「不快」を読み解くことが、「だれもがありのままに生きられる世界」への一歩だと信じて? いや、信じられないからこそこんなことをつらつら書いているのかもしれない。わたしは映像の女の子のように「そんなの待ってられないよ」というやる気はあれども、「そんなのむりだよ」というあきらめも一方では背負っている。

まず「日本人の多数が差別してるかのよう」な「表現」としてこの映像をとらえているというさいしょの謎から。こうした発想を生みだす素地として、自身と「日本/日本人」との癒着がカギになっているように思える。アイデンティティの問題だ。映像内では「わたしって何者?」という台詞から物語がはじまっていくように、それはつねに危機的な状況にあって、自己からも他者からもゆるがされるもの、おのれの手で獲得していくものとして置かれているが、前述のついーとは、その話者が自らのアイデンティティをすでにそこにあるゆるぎないものとして信頼し、そこに安住しているがゆえの反発としてくりだされている。自身が完全に日本人と合一化しているがために、映像内の日本/日本人の表象がダイレクトに自らと結びついて、「日本=日本人=わたしが攻撃された」と「被害者」の立場に自分の身を置いてしまうのである。アイデンティティについて補足しておけば、以前にも引いたことがあるが、グレイソン・ペリーが『男らしさの終焉』でこう述べている。

私たちはアイデンティティについて語るとき、車椅子に乗った黒人のムスリムレズビアンといった人を思い浮かべる。これは、アイデンティティが疑問を投げかけられたり脅かされたりするときにのみ論じうる問題になるためだ。自分のアイデンティティがうまくいっているときにはアイデンティティを意識しない。

生来の自らのアイデンティティとされるものを疑うことなく、そこに安住をもとめるひとたちは、それをゆるがしかねない脅威をこの映像に見ている。「日本/日本人」と「わたし」を同一化しているがゆえの反応だ。映像への反発コメントの数々に「加害性へのアレルギー」という言葉がわたしの脳裏によぎったが、これも距離の問題、アイデンティティの問題としてとらえることができるのかもしれない。自らの属性(国籍、性別、職業……)に対して距離をとることができないひとは、そこにある「加害性」を自覚できず、「被害性」にばかり拘泥してしまう。すこし話は逸れるが、かつてわたしはこんなことを書いたことがある。

いわゆる「無差別殺人」が起きたとき、テロリズム肯定派としてはつねに加害者の立場をとる気構えがある。出来事に対するかなしみや、やるせなさ、怒り、どよめきにみたされ、反射的な反応に終始する被害者側の視点しかないにんげんのことをわたしは信頼しない。そこで起きたことよりも、そうしたひとたちが大半だということにおそろしいきもちになる。何もかもがあきらかになるまえに次々と放たれる「狂人」「キチガイ」「サイコパス」「不良品」といった犯行者への蔑称……。なぜ自分を蚊帳の外に置くことができるのか。なぜあなたとわたしをそんなにまで切り離せるのか。その距離こそがひととひとのあいだに横たわる断絶であり、殺戮の現場ではないのか。他者を理解することなどもちろんどこまでいっても不能であるが、そこで即座に理解できないと簡単にのたまえる思考がこわい。わたしのテロリズムへの信頼は、人間への信頼に基づいている。わたしはあなたを信じたい。人間の力能を信じていたい。だけれども、まさにあなたとわたしの距離の遠さをまざまざと見せつけられるような発言を日々読んでいるうちに、そんなきもちをもちつづけるのももう無理かなと思いはじめてしまっている。

この文に最初にあらわれる「距離」は「犯行者」と、それに対する「反射的な反応に終始する被害者側の視点しかないにんげん」のあいだのものを指しており、それがそのまま「加害者の立場をとる」「わたし」と、「被害者側の視点しかない」「あなた」との「距離」に転化する。このことを今回の事例と止揚するのであれば、ひととひとのあいだにある断絶を埋め、わたしたちが本当に理解しあおうとするためには、自己と異なるものに対する距離をできうるかぎりちぢめようとし、自己と一体となっているかのように思えるものから身を遠ざけようとする姿勢が必要だということができる。

わたし自身は日本に住む日本人ではあるけれど(というとき、その話者は「日本/日本人」という言葉が指す範囲をどのようにして区切るのか? そこには、こうした問いに晒されつづけている「マイノリティ」と、そんなことを一顧だにしない「マジョリティ」とのあいだの途方もない断崖がある)も、「日本/日本人」と自身のへだたりを感じているので、この映像を観ることによってそうした「被害」の念があらわれること自体におどろいてしまう。「ネトウヨ」の言説として「反日」という語をよく見かけるが、それもこの自身と「日本/日本人」との距離の問題として考えることができる。自らを「日本/日本人」とゼロ距離状態の代理表象者として定めているからこそ、そうした言葉を「批判の言説」として軽々しく吐くことができるのである。「わたし-日本」に反するものは、すべて「反日」である、というロジックだ。同じ「反日」でも、東アジア反日武装戦線のほうがよっぽど「日本/日本人」のことを考えているように思える。帝国主義批判の立場から為されたこの語の表出は、「日本/日本人」との距離があってこそのものだ。


ふたつめの謎。この映像に「共感」することが「心のどっかで差別してた」ことにつながることについて。この「共感」は何に対する共感なのか。ネトウヨのロジックに則ってみれば、「日本人の多数が差別してる」ことへの共感ということになる。そこに同意することが、「心のどっかで差別してた」ことにつながる。この理路の糸口──つまりは映像読解──にわたしが疑義をもっているのは、ひとつめの謎をひもとく過程でさんざん述べたのでここでは触れない。代わりに、このリプライの生成にも「共感」の意識がはたらいていることを指摘しておこう。映像で表象される「日本/日本人」へのきょうれつな共感(同化)意識こそが、こうした反発を生む母体となっているのだから。

では、この映像で表象される「在日外国人」の側に極端に共感することには問題はないのだろうか。むろん、あるだろう。そこには「感動」の危うさがある。極端な例をだせばいわゆる「感動ポルノ」と称されるお涙頂戴感情インスタントフードにも通ずることだが、いわゆる「リベラル」のひとたちがついった上でナイキのCMを称賛するすがたを見ていると、ネトウヨ同様の癒着じみた共感意識がはたらいているものも少なくないように思える。わたし個人の感想を書きつけておくと、現代的な価値観を反映した流行の映像のひとつという印象を受けただけであって、もともとはゴッチの引用リツイートがきっかけではあったが、そうした「リベラル」の反応とのギャップもこの文章を書かせる動機になっている。もういちど、もとのリプライを読む。

コメント失礼します。私は不快に思いました。だって日本人の多数が差別してるかのように表現してますよね。ゴッチはcmに共感するということは、心のどっかで差別してたんですか?

100字にも満たないこの文面のために、わたしはこのテキストを書いている。「自己と異なるものに対する距離をできうるかぎりちぢめようと」するためには、労力が必要だということが身にしみてわかる。「あなた」にたどりつくためには、必死に苦労して汗をかかなくてはいけないことがわかる。誰しもが共感を通じてコミュニケーションをおこなうが、その共感の膜を踏みやぶる思考の足踏みだけが、ひととひとのあいだを近づけるのである。その踏み寄ったわずかさを「きぼう」と名指すのか、「ぜつぼう」と名指すのかは、酷使された足の裏にふくらむであろう豆が教えてくれるだろう。

*1:ウイグルを引き合いにだして「そういうおまえはどうなんだ」的なついーとが散見されたが、そこに類似性を見いだしているのに、なんでこの映像で描かれていることを「日本/日本人」の問題に矮小化するんだろうかと思った、これもさいしょの謎の箇所で触れた「日本/日本人」と自らの距離の問題として考えることができる