不遇の心・V

ちかごろの記事を読みかえすとだいたいイライラしている記述があり、わらう。むろん、いまも苛立っている。プリキュアがいてよかった(論理の飛躍)。わたしの心の平穏はプリキュアによって保たれている。いまプリキュアPRECURE 20th ANNIVERSY プリキュア楽曲総選挙をおこなっている(もうおわっている)。のだが、投票テーマが設けられており、そのテーマにそぐわない楽曲に投票することが叶わないのがかなしい(べつにそんなものを無視して投票してもよいのだが、テーマにそぐわない楽曲が「ランクイン」する可能性は0であろう)。たとえば吉田仁美「プリキュアたいそう」とか、宮本佳那子「手と手つないでハートもリンク!!」とか(後者は【友だちと聴きたい曲】に入りうるか?)。


▼「キュッ キュッ キュッ」で死んだ心が再生される曲である
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▼「愛する人と平和に暮らしたい」という普遍的な願望の尊さ……
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夜、あぶらげの味噌汁、豚バラ茄子トマト玉ねぎチーズ炒め。うまい。

ちいかわは苦手だがプンちゃん(ねこに転生したおじさん)はたのしく読んでいる、と書いて、そもそもこのふたつは並列でむすべるのか?と疑問が湧いてきたが、そんなことはどうでもいいかとすぐさましぼみ、労働による疲労があたまの回転を低速にさせている実感が代わりにふくらんでいった。そんなさなか、抗議の意を含んだ連絡を1通送る手間が省けるような出来事があり、ライフポイントが1回復した。みなさんは取引先に抗議の意をどのようにして送っていますか。そもそも抗議が発生するような軽んじを受けることがありますか。



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Apple Musicのnew music mix、さいきんは精度があまりよくない気がしていたのだが、get up mixのほうでしらないバンドのいい曲が流れるようになってへえとなった。


▼たとえばblue deputyのこれ
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▼あるいはthe buttertonesのこれ
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芝山努ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』(1992)。サイケアニメなんだ!と丸尾カーに乗っての静岡までのドライブ・シーンでさっそくたのしいきもちになった(担当は湯浅政明、それもあってかわたしの脳裏には『ねこぢる草』が浮かびあがる)。みぎわさんの怪獣化や、友蔵が食卓で後悔の念を浮かべる場面の画面の歪みなど、歌のシーン以外でも演出がたのしかった。コンテのちからを感じたのは、本作のモチーフとなる「めんこい仔馬」を教えてくれた音楽教員である大石先生とまる子が下校するシーン。曇る眼鏡、手つなぎ描写、後ろ姿といった無言のカットワークによって「別れ」の予感を魅せる、すぐれたモンタージュが発揮されていた。それにしても歌に対するまる子の感情移入力ヤバないか? 視聴者はあれに乗っていけるのか(わたしは乗っていけなかったからこう書いている)。一方、絵描きのお姉さんに対する姉の嫉妬が前半にインサートされ、いい味をだしているのだが、それが終盤、お姉さんとの別れを嘆くまる子をやさしく撫でる動作につながっていく(感情が反転する)さまには涙腺をやられた。

Tさんのキレていた家父長制要素に焦点を絞ると、まずまる子が母に対してご飯茶碗を差しだしておかわりを希望するカットからしておれのうちなるポリコレセンサーがビンビンになるのだった。しかし彼女はまだ小3、いやだがその年代から性役割固定化の再生産に加担させるような養育環境でどうする!と声を荒げるおれもおり、まあそれはさておき食事の支度をする母と姉をよそ目にまる子を誘って入浴する父・ひろしはゴミカスである。というような描写があっての、問題の、「女」の自己実現・自己決定権が「男」によって左右されることを、まる子が「肯定」し、「応援」さえするシーンである。東京で絵を描きたいという自らの願いを優先し、いちどは別れを決めたお姉さんは、北海道でも絵が描けるじゃないか、彼は一人しかないんだ!というまる子の説得によって、北海道に一緒に来てくれないかとプロポーズしてきた男を追いかけて街を疾走する。「感動的な絵面」ではあるが、まったく感動できない構造である。水族館の場面から画面には子連れモブが目立つようになり、恋人を追いかけて走るシーンにも乳母車を押す女のすがたがあるが、これもまた「結婚」という「幸せ」を唯一絶対のものとして提示するしかけのように見えてきて、興醒めするわたしもいた。

もっとも凶悪なのは終盤、お姉さんと北海道ボーイの結婚式のシーンである。授業を抜けだして式場に向かったまる子は、神社に隣接された公園のジャングルジムの天辺から、境内の花嫁姿になったお姉さんに向かって「万歳」をする。このエールは、仔馬を軍馬として戦地に送りだす際の万歳を反復するものとして登場するが、つまりは、軍人=男の役に立たせるために、行きたくもない場所に送られる馬=女という構図を提示する、どう考えてもやばい作劇がとられているのである。いったい、何が万歳なのか。そう、馬を送りだすにんげんたちのなかにも、「いったい、何が万歳なのか」と思った者もいるはずである。いままでたいそう可愛がってきた馬を、みすみす殺させに戦争に行かせることを、「お国のため」という愛国心で包み隠すことができない、わたしのようなにんげんがいたはずである。

だが、そもそもまる子は送りだすことを奨励した側である。涙を堪えながら、万歳、万歳と、お姉さんにもらったネックレスを握りしめながら諸手を挙げるまる子。この転倒はいったいなんなのか。作中にちりばめられたどのサイケ・アニメーションよりも、感覚をゆさぶるきょうれつな体験がここにはあった。

わたしの本作に対する熱量はここで尽きたのでこれ以上思考を深めることはしないが、踏切の前でたたずむ制服姿のカップルが1stカットに置かれていることをどう考えるのか。また、お姉さんがコンテストに描いた作品が、「まる子が馬に乗ってどこかへ行く絵」になっていることをどうとらえるのか(本作のなかで「どこかへ行」ってしまうのはお姉さんであって、絵のなかでは立場が逆転しているのである)。そのあたりも本作を語る上で、考えがいのあるポイントだと思った。あと、どうでもいいことだが、山田のキャラデザがいま(のは観ていないので2000年代)とちがっていないか?とも思った。