嫌悪のフィールド、破線

眼鏡を新調しにでかけた。視力の低下、著し。げんざい、外出用と自宅(しごと)用を使い分けているが、外出用でさえ0.5あるかないかの状態で、それなりにショックを受けた。自宅用を度数をちょいと上げて買い換えるつもりだったが、さらにアップさせてこれまで外出用としてつかっていた度数でこしらえた。こんど東京に行った折にでもレンズ交換したいが、どうか。

夜、蒸し鶏、蒸し牡蠣、きゅうりとブロッコリの中華風ピクルス。ピクルスは妹がつくった。うまい。

戦争犯罪テロリズムの差異。わたしはテロリズムを肯定するが、反戦を唱えもする。ロシアの侵略マジさいあく!とか思いながら、反アサド政権の武装組織にシンパシーを抱いている(なお、シリアにおいてロシアはアサド政権側に立ち、幾たびも空爆を行っているので、反ロシアあるいは反帝国主義としての一貫性は見いだすことができる)。何がこのふたつを分けへだてるのか。個に立脚するかどうかが分岐点なのだろうか? 判官贔屓の構図? 反体制の姿勢?

デパプリ4話。わかちあいをもとに描かれる、ゆいとここねのきもちの積みかさね、、つまりは、ふくらむシェアリンエナジーということだ。ひとりで、でなく、みんなで、はプリキュア哲学のひとつであり、それがこのようにしてふたりめのプリキュアとのつながりを育む構図はひじょうに昂るものがある。ここねがパムパムと見つめあう場面など、表情表現のゆたかさがいい。次回のサブタイ末尾、「ここね、初めてのおともだち!」の文字列に泣く。

バイス24話。プリキュアにつづき、主人公ふたりの絆にスポットが当たる回。カリちゃんの「父」の登場は、「家族」モチーフの本作にとって必然の展開か。次回予告では五十嵐家の過去に触れられており、また物語のギアが一段上がりそう。

ゼンカイジャー最終49話。EDにOP流しだったり、(これまで散々ふざけてきて、最終回にてようやく)ふざけない名乗りだったり、全話追ってきたわけではない自分にとってもアツい展開が盛りだくさんだった。

ワーカホリックであることはいいとして、それを他者にも強要するようなひとはサイテーだ。会社員時代の嫌な記憶がふとよみがえり、このように書かせた。わたしもデザイン作業中などには「ワーカホリック」状態になることがあるが、その範疇を自分の外にまでひろげてはいけないと自制的につよく思う。「関わるにんげんが、それぞれプレッシャーのない状態」を、よいワークをおこなう上で大切なことだと考えているが、かといって〆切がなければ怠惰になってしまうのがにんげんだとも思っていて、そのバランスがむつかしい。換言すれば、「ひとにやさしく」ということだ。


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今朝はもう鎮まったかと思っていためまいがひどく起こり、しまいには嘔吐までしてしまう。吐くのも数年ぶりな気がする。胃腸炎に罹った以来か。妹に心配されつつ、飴を舐めて心を落ち着かせ、そのままいちにちベッドの上でくたばる。押し迫る〆切がやばい。

祖母のつくった粥を胃に入れつつ、なんとか体調をとりもどしてゆく。ワーク、ワーク、ワーク。

夜、豚汁、お好み焼き。前者は祖母が、後者は妹がつくった。美味なり。

体調が回復してゆく。ワーク。

夜、ミートボールと玉ねぎのトマト煮。クミン、塩胡椒、コンソメ、酒醤油。ひき肉にはおからパウダーも混ぜる。

同人会議。戦争の話をする。OもAさんもデパプリを観てくれていてうれしい。3回目のワクチンを打ったOは発熱しており、比較的はやい解散となった。義勇軍の話をしている際、茶化しめいた言及をしたが、通話がおわって中東の反体制組織を思いかえしたとき、またも戦争とテロの差異を感じたのだった。『シリア・モナムール』(2014)だか『娘は戦場で生まれた』(2019)だか、何を観てそう思ったのか思いだせないが、「もしわたしがシリアに住んでいたらとしたらヌスラ戦線とかに入ってたと思いますよ」と話をした記憶がある。聞いていたHさんは、「村上龍だ」と言っていた。(これを書いているいまだに)『限りなく透明に近いブルー』(1976)しか読んだことがないので、そういう話を書く作家なんだ、と思った。

絶叫しながらワーク。今月後半がこわすぎる。大丈夫か?

夜、鶏と茄子とほうれん草の豆豉醬炒め、もやしナムル。うまい。

フェリックス・ガタリ/シュエリー・ロルニク『ミクロ政治学』(2021、原版1986)を読みはじめる。

詩人や音楽家を導いているのは生産過程であり、その過程がそれ以前に彼らが考えていたことを超えていくのです。

めちゃくちゃわかる!と思った。ここでもなんども書いているが、手が考えるという話だ。手をうごかせばイメージがあらわれるという話だ(先に地図があるのではない、ガタリはこうも書いている、「生産過程に入った詩人や音楽家は──大学や芸術学校に完全に取り込まれていないなら──、自分が生産しつつあるものを生産する前に知ることは決してないでしょう」)。さらにはこの運動を「予見不可能なことのために働く」、つまり「革命のために働く」ことのアナロジーとして提示しているのがアツい。

書き写している最中、「彼らが」という表記におれのポリコレセンサーが反応し、苦笑。過渡期だ、と思い、次回のプリキュアの絵コンテはカトキハジメだ、と連想した。