裏拍で数えた犯罪の見返し

人生がめちゃくちゃにかなしい。精神はそこまで落ちていないが、とにかくかなしい。沈みかたがやばい。かなしくなりたくねーーーー。

夜、豚キムチ。フライパンから具材が足の甲に飛び、火傷する。

ほんとうにどうしようもないなと思いながらこの1ヶ月半書きつづけてきたテキストのおわりが見える。まったく明るい気分にはならないが、解放感は芽生える。徹夜してパソコンに向きあい、書きおえる。達成感と完成度はまったく相関関係がない。数日経って衍字を見つける。

トロプリ35話。話のはこびと演出にいつもとちがうノリを感じた。脚本・守護このみ。絵コンテ・貝澤幸男。演出・小松由依。ワタワタ(?)感というか、他の回に比べてゆるさがつよい気がする。まなつの弱気になる動機と、戦法を迷うシーンに唐突感を感じたが、これも今後の布石になっていくのだろうか。ハロウィン仮装のキャラクターたちはみなおしなべてかわいい。次回休みのかなしみ!

バイス9話。ライダーキックで次回へつづく!のnot1話完結構成。予告でさっそくアギレラvs.妹ちゃんの再戦があり、変身にまた一歩近づいたのではときもちが高揚する。どんなにシリアスな話をしていてもバイスがふざけているだけで暗くならないのはおもしろいなと思う。

今日はU-NEXTからプリキュアの消える日だったはずだが、いま見るとすべての作品から10月31日までの表示が消えている! いままであせって観ていた意味!という肩透かし感と、のこることになってよかったという安堵感がないまぜになって湧き起こる。同じく10月末に配信終了とされていたウテナも消えていなかった。年内に観たいと思っている。


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富野由悠季機動戦士ガンダムZZ』27-28話。リィナ奪還にフィーチャーした前後編。ガンダム・チームのアヴァンギャルド気味の服装がおもしろい。ルーやエルに至っては髪型もアレンジされていて、凝っているな、と思う。地球連邦のお偉方を前に濃い化粧をして「武装」したハマーンを見ていると、まだ年若いのにネオ・ジオンの指導者として担がれていることの「おもさ」を感じる。ただそんなハマーンの気丈さも、ジュドーのプレッシャーによって気圧されるシーンが挿入されることによって、「もろさ」に反転するのがおもしろい。リィナの演説によって感動するジオン兵があらわれることが、一言も喋らない傀儡のミネバも含めた女性たちのあいだの対比を強調する。「今日から私がリィナになってあげるから」というプルの台詞は、自身が代替可能なクローンであることの悲哀が言葉を裏打ちして、きょうれつなひびきをもっていた。あとパーティ会場にヤザンがいてわらった。

ゆうゆう窓口に行くためには電車に乗らないといけず、電車に乗るということは膨大な待ち時間が発生するわけで、ひさびさに図書館に立ち寄る。いくつかの文芸誌をパラパラながめ、読み切れそうなながさの舞城王太郎ドアドアドアド」をうつらうつらしながら読む。タイムワープあるいはパラレルワールドに直面した大学生ふたりがああでもないこうでもないと自身が巻きこまれている現状について思弁していく会話劇で、作中で想像されうる時系列-世界線の作図まで掲示されるねむいあたまで読みこむにはつらいスタイルの小説だった。乗代雄介「皆のあらばしり」も冒頭だけ。「本物の読書家」における関西弁のおじさんもシリーズ化なのか! 帰りの電車で深夜百太郎再放送の「横内さん」読む。おもちれーーー。

洗濯機をまわしたところで眠気の限界にて沈没。めざめると自民が前評判よりも議席を維持している。なによりいやなのは維新が爆増していることで、コロナを経ても(維新投票者にとっては経たからこそ?)ネオリベ的な空気がつよくなるのは正直意味がわからない。近畿ブロック以外でも確実に比例票を積み増していて、おれはこわい、と思う。

「仕事や友人関係うまく」いっている人の方が少ないよ。
もう、その辺りの認識からしてダメだよね。

仕事が上手くいかないのは理由にならない。誰だって仕事で悩みを抱える事はある。人を巻き込むのはやめてほしいです。

上記は京王線刺傷事件に寄せられたヤフコメの抜粋だが、このような言説が支持されている現状も、維新に「風」が吹いている一因だろう。〈「わたし」以外にもっとたいへんなひとはいる〉ということも〈「みんな」そうである〉ことも、「わたし」のかかえているつらさやかなしみとはまったく関係がない。とても憂鬱な気分になる。このような言葉こそが、ひとりのにんげんを追いこむ空気をつくりだしていることに思いを至らせたことはあるか。ひとりで死ぬ勇気(恐怖)と、ひとを殺す勇気(恐怖)、どちらが奮い立たせる(打ち克つ)のがむつかしいか、考えたことはあるか。ないから上記のような記述ができるのである。何もかも自己責任で片づけようとしないでほしい。「他人を巻きこまずに一人でやれ/死ね」とはそういうことだ。

文学+の荒木優太の文芸時評に「左藤青、あとはお前にまかせたぞ!」と呼びかける一文が原稿の末尾に置かれていて、図書館で目を通した新潮新人賞の選評で田中慎弥が「すまん、大澤!」と他の選者に触れている箇所を思いだした。こういうじゃれつきは「ホモソーシャル」なものとして断罪される風潮にあるのかもしれないが、わたしはともにくすりとわらってしまった。

夜、豆腐の味噌汁。豚の生姜焼き。