20代後半にもなって電気が止まるような生活してるとは夢にも思わなかったよ

永続的にも思える資金難、われわれの20代を覆い尽くさんとするこの停滞のムードに対して抗うことは一筋縄ではいかない。たとえば休日、このわずかばかりに得た時間を何かを鑑賞することに費やさんとするとき、「でも今月余裕ないしな……」という逡巡におそわれることは、〈制作〉を生の主題として生きる者にとって恐るべきことだ。ものを創りだすことは、自らのうちにとりいれたものを、ふたたび自らの界面を通して外の世界に現出させることである。このようにして言葉を綴ることも、すべて何かからのコピーであり、これまでに見聞したものごとのすべてがその素材・原料となっている。為すために得、得るために為す。この反復運動の結果が創作物であり、それを成しうる体験の積層である。むろん、そこではものを観、判断する〈見識〉こそが係数として要となっていることはいうまでもない。

そんな話がしたいのではない。出口のみえないこの貧困についてである。死なない程度に生き延びさせられているこのありさまについてである。

1800円。映画の一般料金だ。安くない。今年になり、場所によっては1900円に値上がりした劇場もある。さらには増税での値上げも散見される。過日もそんな高い金を払って映画を観に行った。半分入りくらいの中規模ミニシアターで、上映間近にすべりこんだわたしは、ひとの足をまたがずに座れる席をきょろきょろと探し、すばやく腰をおろす。同列の端の方には扇子をぱたぱたと扇ぎつづけるひとがすわっている。チケットを購入する際にも告知されたが、予告編はなく、本編からの上映であるというアナウンスが流れ、スマートフォンの電源はお切りください云々の注意書きがスクリーンに投影される。その上映直前のタイミングで、おずおずとした男の声が、しずかな劇場のなかにひびく。

「すみません、扇ぐのやめていただけませんか」

風が、音が、あるいはそのうごき自体が、周囲に影響を与えていたのだろう。こんせつていねいな呼びかけだった。だが、返答は以下のようなものだった。

「イヤです。暑いんです。そんなにいうのなら、あなたが席を移動したらいいんじゃないですか」

なぜ、そんなにも喧嘩腰なのか? たとえば、いびき。スマートフォンの音や光。上映中の話し声など、映画館で怒りのきもちをかかえてしまうのもわかるのだが、これはそういう話ではないだろう。しかも上映直前である。おおきな劇場ではないゆえ、そこにいるだれしもがその出来事を目撃したあとに映画を観ることになる。やりとりは解決しないまま上映がはじまる。映画がどのような展開をみせようとも、げんじつはずっとサスペンスの状態にある。わたしなどはそうしたことを鑑賞中ずっとひきずってしまうたちなので、ほんとうに勘弁してほしいと思った。なぜ、もっとやさしくなれないのか。


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釣りへ行った。釣り竿をにぎるの、何年ぶりだろうか。結果は、ボウズ。とはいえ、森、湖、サイコーである。日焼け止めを塗りわすれ、今年初の日焼けをする。おそらくは、最後の日焼けでもあろう。かよわいエンジンを搭載したモーターボートで、わたしたちはみずのうえをずももももとすべっていった。