パララックスの健忘、あるいは臨戦

先月と、先々月の心情の、たたかいの記録として記す。

理不尽だなあと思いながら日々zangyoしているが、かかわっているひとみんながみんなそう思いながらやっているような気がしてかなしいしばからしくなる。編集の段階で地獄を見ていると、デザインあるいは印刷製本の行程でも地獄を見るわけで、そういうしごとのやりかたに加担していると思うととてもつらいきもちになる。甘い、といわれようが、みなが幸福なまましごとをすすめられたらいい。肉親の通夜においてさえも棺のそばで原稿をなおしていたというエピソードをまるで自慢話のようになんども語られるのだが、その偏執的なまでのしごとに対する意識の徹底にすさまじさを感じるとはいえ、わたしはそんなことはぜったいに真似したくないし、だれにもそんな真似をさせたくない。歌舞伎役者が公演の最中に親が死んだからといって休演するのか、という話も耳にタコができるほど聞かされるのだが、いや休演しろよ思う。「そんな状況にもかかわらず休演せずに公演をやりきるなんてすばらしい」、なんて単なる特攻精神でしかなく、そうした認知の歪んだ感動ポルノをわたしは心の底から拒絶する。斯様な論理がまかりとおる世界をわたしは受け入れることができないし、そんな世のなかが幸せだとは思わない。おれは世界の幸せに貢献したい。

こんなやりかたでしごとをすることがよいものをつくるためになるなどわたしはまったく首肯しかねるし、このような枠組みのありかたは唾棄すべき古ぼけたくだらぬ因習としてすべて粉砕したい。過剰なる負荷のもとでなされるものごとにおいて、割を食うのはつねに末端だ。それぞれの先端部における「わたしの犠牲」はまたさらなる犠牲を生んでゆく。まいにち腹の立つことが多すぎておゲロがでちゃうね。理の無の極。ふくれあがる殺意がもったいなくてしょうがない。こんなところで怒りのエネルギーを使わざるを得ないのがむなしくてしかたがない。

こうした繁忙期になるたびに、なぜこんなばかみたいなスケジュールでしごとをしなくてはいけないのかと無の状態になる。改善という語をよく用いる上司に対して、わたしの10倍以上の年月をはたらいてきてどうしてそこは改善できないのかと問いかけたくなる。上司は「われわれはサラリーマンとはちがうのだ」とミケランジェロピカソなどを例に引き、クリエイターには土曜も日曜もないんだとなんべんもくりかえしわたしに語ってくるのだが、飽くまでそれは「自らの制作」に対する姿勢であって、わたしも自分の創作活動に対してはその意識を共有できるのだが、「会社勤め」かつ自分の創作意志とはまったく関係のない「業務」としてしごとにたずさわるわたしになぜそれを強いることができると思っているのか1ミリたりとて理解できない。わたしは主人に従順なロボットではない。残業代や休出手当がいっさいでないのもまったく意味がわからない。しごとのやりかたをわたしに教え諭すたびにここは学校じゃないんだから、とか、月謝を払ってもらってもおかしくない、と冗談めいて恩着せがましいこともよく言われるのだが、そんな論理を展開するのであればはじめからひとを雇うなといいたい。ひとりで自らの制作をまっとうしていればよいではないか(これはおれ自身にもいえる、論理がちがうとはいえ、、)。ここにある関係性は、はっきりいって搾取以外のなにものでもない。はやく自らの制作だけに集中できる人生になりたい。あらゆる時間をおのれに捧げたい。


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自己の反発心を飼いならすことができない。反抗的であることから逃れられない。わたしは生意気である。わたしをしばりつけるものに対して、わたしは抵抗をやめない。身に降りかかるあらゆる火の粉を払いのけたい。わたしに密接にむすびついたこの性向は、これからの人生、他者とのあいだでなんども衝突を生むことになるだろう。だが、その闘争こそが世界をよくするための一歩だとわたしは信じてやまない。常識、ふつう、あたりまえ……。そうしたひとびとの生活をおびやかすヘゲモニーとしての既成概念を破壊しつくすために、わたしはこれからも生きてゆく。