反射四辺における青空の水準

石井光太『遺体』を読みます。半分ぐらいまで。本書もラジオの震災特集にかこつけて積み本をくずしたもののひとつです。壮絶な津波の被害にあった岩手沿岸・三陸釜石市における、仮設遺体安置所を舞台にしたルポルタージュですが、こころのねじきれるようなつらい描写があまりに多く、読んでいて胃が痛くなりました。

たとえば、こんな箇所。遺体安置所となっている中学校の体育館に、津波の翌日に足を踏み入れた場面です。

市のジャンパーを着た自治体の職員らしき人たちや、消防団の法被を着た者たちの姿もあった。担架に乗せられて遺体が運ばれてくると、彼らは警察官と相談して遺品を一つにしたり、遺体を列の最後尾に横たえたりしている。同じ町のたまたま助かった者たちが、次から次に発見される地元の人のたちの遺体を収容するのを手伝っているのだ。(石井光太『遺体』)

「同じ町のたまたま助かった者たちが」「地元の人たちの遺体を収容」している。自らの家や、職場、家族、友人が、地震によって打ち砕かれ、津波によって流されてしまっているかもしれない状況のひとびとが、地震津波の翌日に、遺体安置所で手をうごかしている。運ばれてくる遺体のなかには、みしった顔がいくつもあらわれることでしょう。あまりにも過酷です。そしてそんな遺体の様子にも胸が打たれます。

開口器をつかって口をこじ開けてみると、津波の恐ろしさを目のあたりにした。歯の裏に黒い砂がぎっしりと詰まっていたのだ。大量の砂ごと泥水を飲み込んで窒息したにちがいない。喉の奥まで入り込んでいる。犠牲者の多くは泥水を飲み込んだことによる溺死なのだろう。(同上)

歯型を確認して、身元を確認する際の描写です。「歯の裏に黒い砂がぎっしりと詰まって」という、わたしたちが送る日常生活ではとうてい起こり得ないその状態が、生じた出来事の壮絶さを物語っています。そうした泥と砂に身体をもみくちゃにされた死体が、体育館の床を埋め尽くしているのです。常軌を逸した風景です。

食事の時間までは制作をします。実寸を見ねばとせんじつ購入したA3の紙で試し刷りをしてみると、ちょっと紙厚が薄いかなという気もしますが、それなりの見栄えになり、やる気がふくれます。刷ったものを基準に文字のサイズやレイアウトをいじり、テキストを執筆します。あわせて別丁のさしこむ場所や、その判型と内容を詰め、食事の支度に移ります。

献立は、ガーリックチキンステーキ、しいたけのグリル、あぶらげとねぎの味噌汁、干し海老とチーズのレタスサラダ。鶏の脂を吸ったしいたけがうまみの暴力でした。ソースの代わりにかつおぶしをまぶしてさらにパワーアップさせます。ベリうましです。サラダは塩を入れすぎてしまい、舌がしびれます。


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食後も制作のつづきをしていると、妹が誕生日にとケーキをもってきてくれました。生身のにんげんに誕生日を祝われるのはずいぶんとひさしぶりな気がしますが、どうでしょうか。わたしが人生でいちばんたくさんのひとに誕生日を祝われたのは、学生の頃、演劇祭に役者として参加していたときのことでした。しゃべったこともないひとが、ひとつしかないひろい楽屋でおめでとうと口々に発したり発しなかったりするのがふしぎだったのをおぼえています。そんなことを思いだしました。

年をかさねるにはいちにちばかりはやいですが、ありがたくいただきます。甘いクリームを食みつつ、ブログをたったか書いていると、めずらしく通知欄に赤いフキダシがでています。ひらいてみると、そこにはわたしがいつも読んでいるブログのアイコンが表示されており、「この丘の草の生えかたの読者になりました」と書いてあります。そんなこと、あるのでしょうか。わたしははてなブログにかぎらず、読んでいるブログについては読者登録の類をおこなわず、それぞれブックマークして読んでいるので、ほんとうに奇跡的なことだと思います。うれしはずかしの気分です。