身もちの引導

なかば強迫観念のように何かを観にいかなくてはいけないとここ数年、毎週末ギャラリーや映画館や劇場などに足繁く通っていたが、ここにきていまだかつてないおちつきを得ているのはなぜだろうか。家のなかには天井まである3つの本棚をところせましと埋める積読本があり、なおかつ書籍に対する購買意欲が近年いやましており、連休のうちかたいっぽうは、それをくずすことをさいきんの方針としている。微々たる速度ではあるが、よい本ばかりでたのしくうれしい。

はやく帰れた日、職場ちかくの紀伊國屋書店が何やらものものしく、なにごとかと思ったらノーベル文学賞の発表待ち報道陣で、客はその横を素通りしていくのに対して、カメラマンやレポーター(?)がフロアの一角を占めている光景はとても文学だと思った。レトリックが通用しない時代、どうしてこうなってしまったのかとあたまをかかえる。それともむかしからひとはたいていこのようなもので、それがSNSによって可視化されただけなのだろうか。文学の居場所などそもそもが片隅にしかすぎないのだと居直る気風をおれはまだもたないが、詩は特定の人のものだといった吉岡実の精神を背負う覚悟はある。万人を相手にすることの傲慢さ。

教育という概念の傲慢さを考える。問題が生じたときにひとつの帰結点としてあらわれるこの「教育」。ものごとの源流としてやり玉に上がるこの「教育」。ひとがひとになにかを教える構図、その関係性、わたしは「正しい教え」ではなく「学ぶ自律性」の方を信じたいが、わたしよりもひとまわりもふたまわりも上のひとたちが何かが起こるたびに反射的にわーわーわめいているすがたを日々見るにつれて、そんなものほんとうにあるのかと落胆するばかりだ。かつて安吾が「親があっても子は育つ」と書いたが、この文句はもはや成り立たないのだろうか(むしろ成り立っていた「時代」などあったのか)。


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スピッツのサブスク解禁がめでたい。もっていないアルバムをまいにちいちまいずつきいているのだが、ほんとうにいいアルバムしかないなとかみしめている。今日は台風がきていることもあって、もってるアルバムを日がな一日CDプレイヤーでかけつづけているのだけれども、これまたあらためてそのよさに感服している。『インディゴ地平線』がはじめて買ったスピッツのアルバムで、おそらく聴いた回数もいちばん多いのだが、さほど好みではなく、聴き返すことはほとんどなかったというのに、ここにきてその滋味深さに舌を巻いている次第。全アルバムを聴きおえたらスピッツこの10曲とかやりたい。映画のオールタイムベストとか、名盤5選とか、海外文学10冊とか、そういう個人のセレクションをみるのがおれは大好き。