アーニャ鳴いてる、風向きは地へ

初のゲストを迎えてのラジオ。3時間ほど。たのしかったが、むつかしい! リスナーの方向を向きながら、どうゲストにも向きあうのかみたいな、わかれみちをうまく制御できない。過去の反省を読むと、「もっとゲストとむきあってしゃべればよかった」とあり、そこは割り切るべきなのかもしれない。内容と伝えかたの話を放送中もしたが、内容の充実によって伝えかたを突破するというか、わたしの場合はそういう方式を目指したほうがよい気がする。同時に複数のことができないタイプのにんげんなので、伝えかたにも気を配ろうとすると、どれも中途半端になってしまう。巧いひとはどちらも簡単に両立させるのだろうけれども、、

ほなみさんの卓越したバランス感覚の話をしたが、それはこの放送中にも遺憾なく発揮されていて、ちょいちょいフザケを入れるさまやそのタイミングがラジオのリズムをうまくつくってくれていて、とても助かった。それをちゃんとふくらませたりなんだりする技術がないので、招いた身としては申し訳ないとちぢこまるばかりである。事前のじゅんびに関しては、もっと放送の構成に気を配ったほうがよかったと反省。材だけあつめても、それをうまく組み合わせないことにはどうしようもないのである。いってみれば「インタビュー」のような体裁で話はすすんだのであったが、インタビューの最終アウトプットが文章であることと、話す=完成形であるラジオのちがいが如実にあると、おえてみてから思い至った。どんなに支離滅裂なインタビューでも、それを原稿化する段階でどうにでもなるという経験が、放談を放談のままにしてしまう根拠となってわたしの話しぶりを支えていたのだった。

途中までラジオの見出しづくりをし、入眠。めざめ、パンを食みながら見出しづくりのつづきをやり、大根と焼豚のオイマヨ炒めをつくったらもう夕方である。毎週のことだが、ラジオ翌日のパワー消耗がすごい。とはいえ、三日坊主で名を馳せたわたしがこうやってちゃんと放送をつづけていることに自分でびっくりする。無職を脱したら(?)、ツイキャスでもおしごと相談室をはじめようとしているのだが、大丈夫だろうか。ツイキャスではなくstand.fmというのも気になっている。どちらも試放送をしてみてから考える。


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夜はOとAさんと通話。毎月の定例になりそう。ふたりは大学時代に所属していた現代思想ゼミの先輩らなので、ドゥルーズやらハイデガーやらベンヤミンラカンレヴィナスなどのなまえがでてくるのとともに、もなちゃと、なりきり板などのそれぞれのしられざるおもしろ過去話もあらわれて、4時間半くらいたのしく談笑する。話の節々で切れ者だなあと感じる瞬間が多々あり、おふざけを成り立たせるあつみの重層をおもった。語の出現がまさに的確なのだ。まなびてえ、と思った。ほか、「観客に怒ってばかり」というわたしへのツッコミ、これはめちゃくちゃ考えなくちゃいけないことじゃないかと、一夜を経てもあたまのなかにのこっている。その憤りが、わたしを制作へと促しているのかもしれない。「リテラシー」という語もそれを支えるようにあらわれていた。