無理のひらき

夕餉の献立、里芋とごぼうとひき肉と玉ねぎの味噌七味炒め。昨日の味噌汁。ほか惣菜。たいそううまい。都で暮らしていたときに気に入っていた山吹味噌の「コクとかおり」をこちらでも見つけてつかってみたのだが、もとより家でつかっていた会津天宝の味噌もうまいので感動が少ない、か? 同じ料理をべつの味噌でつくって、こんどちゃんと味比べをしようと思った。おいしい調味料がゆたかな食生活を支える。

昨晩ネットの海をさまよっていた際に突き当たった高崎市立美術館で2017年にやっていた佐藤晃一展のトークの模様を読む。ふたりの弟子がそれぞれの作品にコメントを付していくスタイルで、展示自体はわたしも観に行っている。好きな作家(デザイナ)であり、わたしが自覚的に影響を受けていると思っているひとだが、つまりそれをたどれば横尾忠則に行き着くわけで、買うことをやめた『横尾忠則全ポスター』以外の著書はほしいなと思っている。全装幀の現物が見たい。

ゑ藤 僕は卒業して廣村正彰さんの事務所に入りまして、もちろん仕事の規模や質も違うので一概には比較出来ないのですが、提案したデザインが一発で通らないこともあります。対して、佐藤先生のお手伝いをしていて一発で通らなかったことが一度もないんです。
村松 僕もないです。
ゑ藤 100%通るんですよね。
村松 「美の力でねじ伏せる」と先生は言っていました。
(グラフィックデザイナー 佐藤晃一展 佐藤晃一のアシスタントによるギャラリートーク「佐藤晃一の仕事」より)

上記の展示を観にいった際の記事にも書いているが、わたしの上司はわたしの入社以前には佐藤氏とよくしごとをしていて、わたしが好きなデザイナであるということもあって在職中その頃の思い出話をいくつか聞いたことがあり、「一度もない」と話されている「通らなかったこと」の話もあったなと思いだした。「美の力でねじ伏せる」とあるが、まさしく集団制作とはすなわち美意識の闘技場であることがわかる。美だけの問題に回収させるなという声も即座に上がる。その通りである。


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ラジオの前の精神統一(?)として、稲川方人『詩と、人間の同意』に手をつける。買って以来、時期も頁もバラバラに読んでいるのでいっちょ通読するかのきもちであたまから読んでいく。「はじめに」のあとの、「生ける言葉と死す言葉」と題された最初のテキストの冒頭が以下である。

いま、じぶんが見ている視線の先の光景がもつなにほどかの起伏や心理や、もしそれがあるとすれば、そこに在るべき物語(﹅﹅)の発見といったもろもろの抽象と修辞を徹底した性急さのうちに回避し、しかしわざわざ避けるほどの時間でもないだろうわずか二、三分先のごく単純な結果(﹅﹅)をのみ、三万ほどの観客たちははじめから(﹅﹅﹅﹅﹅)待っているわけで、その視線の集中の強度とは裏腹に、結果と幕切れ(﹅﹅﹅)の優位をしか信頼に価いしないとする彼らを、もちろん常識的にさえ観客つまり対象を対象として認知する人と名付ける人と名付けることはそもそも無理なのだが(……)
稲川方人『詩と、人間の同意』より)

なんという凄みだろうか? 何について語っているかもまだ定かではない晦渋さにみちたこの書きだしは、さらに同量ほどの字数を、「競走自転車」の5文字をそのうちに含みながら書きすすめられた上で最初の句点の到来を受け入れ、そのみじかい息継ぎのあともはげしいロングブレスで競輪場につどった観客のふるまいについての記述へとつながっていく。この「正確」さに対しておまえはどう対峙するのか、と読者であるわたしは行をすすむたびにつねに問われつづけるような感覚に陥り、うかうか読みすすめられない思いに達する。ラジオの時間がきたので本を閉じ、放送をはじめる。

ひとが、ひとが福袋をあけている動画を見るのはなぜだろうか。