ねおちゃんのへそ間借りねずみの晩餐

ひとと暮らすということは、畢竟音の問題になる。存在とは音なのだ。あらゆるうごくものは音を鳴らす。わたしだけでは起こりえない音の存在が、わたしに負荷を与える。家電の発する駆動音や信号音、携帯のアラーム、音楽、水流音、歩行音、咀嚼音、げっぷ、おなら、呼びかけ……。ひとりで生活をしていればわたしの耳に入らない音の数々が、逃れがたい不快を植えつける。では聾者はどうなのか? ふれること、さわること、かたち、が問題となる。こうしたことについて論じた本が読みたい。わたしの生がわたしの思考を要求する。わたしの過ごす生活が、わたしの関心を左右する。環境がわたしをつくる。地が図を生ぜしめる。

納豆味噌汁沢庵で白米という日本的朝食でいちにちを開始し、ユリイカを読みすすめる。やわらかくない言葉と擦れあうためのウォーミングアップ。上記の環境や地図の話は戸田(+鈴木)経由の表出だ。年始の読書のすじみちとしては、マルクス上野千鶴子を経由して、ユベルマンユリイカの編集後記にその名がでてきた)あたりに手をつけてみるか?などと思っている。語ときちんとぶつかること。こういうあたまで排気口のテキストもあたろう、今夜に。

みんな理由をほしがってる。もたれかかることのできる外在化された理由があれば、「わたし」にいいがかる「だれか」に対しての免罪符になる。**がいってたから、XXがでていたので、○○がすすめていたゆえ……。冒頭の地/図の話もその変奏に過ぎないのかもしれない。自らに内在している理由をこそ、信じてみる勇気が必要だ? そんな風に生きられたら苦労はしない。

デザイン作例記事をまとめ上げ、公開前に確認のメールを送る。編集者の作法、という語が浮かぶ。しごとを「やめなきゃよかった」と思うことはいっさいないが、そこでの経験は確実にわたしのなかで息をしている。TOPS、Yumi Zouma、Alvvaysを聴きながら息抜きに麻雀を打つ。打つまえにわたしより遥かに上手なひとらの卓を観戦するも、運がわるいときにはどんなに巧くてもどうにもならないんだなというどでかい事実にぶちあたるだけだった。


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夕飯のために米を炊き、水餃子を投入する用のとろとろ白菜スープをしこむ。今日はそれに加えて味噌汁のあまりと、サモサ、鰹のたたきの予定。多国籍! 統一感のなさがよい。どれもうまし!

食前後にグラフィックの制作。シリーズ2作目ということもあって、縛りをどうするかを考案しながらの進行になり、試行錯誤がしばらくつづく。9割がた詰めおえたところで入浴、就寝。