きもちのよい晴れ。洗濯機をまわす。朝、ひき肉、ロメインレタス、ピーマン、トマトをハバネロペパー、ウェイパー、オイスターソースで炒めたソースでスパゲティ。麺少なめ、野菜多め。アイドルズのライヴ盤を聴きながら食す。どこへ行くか考えつつ、とりあえずとげんびだとシャワーを浴びてでかける。美術館の外壁にひとがならんでおり、おいおいと思いながら最後尾につき、写美では2019パスポートが延長されていたが、ここでもつかえるのかなと受付にだすと、セット券のほうがお安いですよといわれ、トレーに載せたそれをひっこめる。エリアソンだけ入場列ができていたので、さきに「もつれるものたち」を観にゆく。展示室に入ってさいしょに目に入るトム・ニコルソンの《相対的なモニュメント(シェラル)》を観ながら、わたしのコンセプチュアルアートに対する興味関心、あるいは好意といったものの根というのは、「読むことのおもしろさ」であって、それを作品に求めているがゆえにコンセプチュアルなものが好きなのだと自覚できた。
藤井光《解剖学教室》とリウ・チュアン《ビットコイン採掘と少数民族のフィールド・レコーディング》がとくによかった。前者はスクリーン、またはスピーカーを遮るようにひとが往来していくので声がききとりにくく、字幕も読みとれない場面があって、ちゃんと受けとれたのかはこころもとないが、たったひとりの学芸員が放射能に汚染された展示物を救いだすために何年もかけてがんばっていたというエピソードだけで胸を打たれるものがあるではないか(が、そんなところに感動しているだけでは作品の射程を見誤るばかりである)。本作は、福島の原発事故によって放射能汚染された博物館とその所蔵品について、フランスの学者やアートスクールの学生たち(?)と作家自身が語りあう様子をとらえた映像と、じっさいにそこで展示され、いまは避難状態にある物品たちによって構成されたインスタレーションで、、、
まいにち更新が目的化しているような状態のいま、くわしく書くことが放棄される。空になった博物館に、町民が破壊された家に残ったたいせつなものを一時的に収蔵してもらっているという話などを受けて、シェイクスピアから「時間の乱調」が引用されたり、アウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺を例にだしての表象representationの問題など、さまざまな論点が抽出されるさまがおもしろかった。みながきちんと自分で語ることができる、という個のつよさを感じた。田中功起の作品群を思いだす、藤井は田中の作品の撮影監督をつとめていたりする、アーティスト同士が影響を与えあうこと、
後者はおしりの時間(オラファー・エリアソンを観るための時間、展示ははっきりいって「映えのための帝国」という感じで足早に観おえてしまったので不要なあせりだった、ほんとうにつまらなかった)が迫っていたのでまあちょろっとだけ観るかというきもちでみはじめたらまあおもしろく、けっきょく一周してしまった。アジアにおけるビットコイン採掘の実態をめぐるひじょうに興味深い事実を、喚起力あるイメージの縫合によって作品化していた。いつかのエビゾーで観た作品を想起する、惑星ソラリス、未知との遭遇、さまざまな映画がスクリーンに投影されていた。
鶏皮としいたけの五香粉炒め。酒がすすんでしょうがない味
映画も観にいこうかと思ったがはやく帰って酒を飲むのもいいなと思ってそうした。サクラビールとウォッカカルピス割。うえの炒めもののほか、キムチーズとスクランブルエッグも食べる。好きな音楽をかけておいしいものを食べて酒を飲む。サイコーじゃんね。明日はどうしようかな。