情けない鹿らが落ちた穴

アイスが食べたいわ。でもないわ。買いに行くのはめんどうだわ。あきらめるわ。

家にいるとほんとに本をひらかなくなってしまう。明日は近所の図書館にでも行こうかしら。そういっていつものように行かないのだわ。

なんで今日も雨! とがばと起き、ひき肉ピーマンをパプリカ塩チーズタバスコで炒めたやつをクラッカーにのっけながら食べつつ、豆乳を飲む。シャワーを浴びて原美術館へ。ここもひさびさ感がある。ソフィカル以来だものね。予約してあるとむりやりそこにあわせようとするからいつもよりてきぱき行動できる。そのくせいろんなものを忘れたりする。ゴミだしチャレンジ成功。


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クラッカーをあまらせてしまう量だった


メルセデス・ベンツ アートスコープ2018-2020」@原美術館。アートスコープのシリーズは2012-14と15-17のも観ているので、おそらくこれで3度目になる(ほかにもあったっけ?)。ハリス・エパミノンダ、久門剛史、小泉明郎の3人の作家が参加しているが、ここではなかでもきょうれつな体験ができた小泉明郎の作品について書いておく。

《抗夢 #1(彫刻のある部屋)》と題された本作は、サウンドバイスiPod nano)を片手に、録音された音声をヘッドフォンで聴きながらふたつ(あるいはみっつ)の展示室を行き来する作品となっていて、「サウンドスカルプチャー」と銘打たれ展示されている。わたしがサウンドスカルプチャーときいて想像するのは、宇治野宗輝やタレク・アトウィといった作家の、文字通り音の鳴るオブジェ作品のことで、本作はそれらとはまた異なるスタイルのものだと感じた。まずはついーとした感想をひっぱってくる。

小泉明郎@原美、ファンシーな憩いの場である奈良美智ルーム(ぜひ扉をあけて)すらもが地獄絵図と化す、知覚と想像力に対するおそるべき暴力体験。幾度も反復される死者/生者からの呼びかけによって、内なる凄惨なイメージが空の展示室に立ちあがり、暴れ狂う光の明滅とともに恐怖の光景が彫刻される

ここで彫刻されているのは、イメージなのだ。音と光と空間、さらにはわたしたちの想像力をもってして生みだされるイメージこそを、スカルプチャーとして提示している。わたしが本作を体験しながら考えていたのは、岡田利規のいう「コンセプション」のことだった。上演を通し、いかにして観客にイメージを受胎させるか。この原美術館のふたつ(あるいはみっつ)の展示室において、それはひじょうにすぐれた水準で達成されていたように思う。わたしは近作《縛られたプロメテウス》を観逃しているが、小泉明朗はこのVR「演劇」と冠した作品をつくる以前からフィクションと現実の裂け目において「演ずる」ということを問題にしてきた作家だった。《僕の声はきっとあなたに届いている》、《若き侍の肖像》、《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》……と無数に例を挙げることができるが、こうした作品は主に映像/スクリーンを通して制作されていた。本作は、そこから離れることによって、また新たな知覚への踏みこみを為したのではないだろうか。与える情報量の制限は、ひとの想像力をより発揮させる(わたしがハネケのような「映さない作家」のことを好きなのは、そういういちめんもある)。今年観たなかで、もっともつよい衝撃を受けた現代美術作品だった。

こうした思わず2周してしまうようなびりびりくる展示を観ると、さいきんしぼんでいた現代アートに対する熱情も多少は回復する。オフサイトワークとして配布テキストに記載のあった《抗夢 #2(神殿にて)》は、いずれwebからダウンロードできるようになるようで、人通りの多い街中で聴く美術作品にしあがっている模様。イヤホンをひとつももっていないわたしもどうにかして環境をととのえ、体験したく思う。

のち、二人(ニト)というオープンしたてのスペースが品川から電車一本で行けることがわかったので訪問。しりあいの作家がぽつぽつ参加していて気になっていた展示で、住宅街のフツーの一軒家がギャラリー化しているスタイル。それぞれの作品が1万円で買え、買われた作家は次回以降倍々に値段が上がっていくというおもしろい試みがなされているのだが、展示ではなく販売方法にコンセプトをもってきているので、あつまっている作品はなんだかぼやぼやした印象をぬぐえない。ずいぶんと失礼な話だが、1万円という値段が先にあることがそこに影響しているのだろうかと邪推もしてみたくなる。それはともかく、配布物のテキストがなんだかおもしろい書きぶりで、興味深く読んだ。なんにせよ、あたらしいスペースの誕生はうれしいものだ。