ひとは誤解しあって生きていくしかない

という見地に立っているひととはあまり誤解しあわずに生きていけると思う。

夜、カレー、クラッカー、ズブロッカ。少量だけ食べて、Nくんを待つ。退職交渉時、採用時に興信所をつかってわたしの身辺調査をしていたという話がでたのだが、いまわざわざそんな話する?!とめちゃくちゃおどろいたし、このご時世にそんなんありなの?と思う。ほんとに、根本から、考えかたがちがうのだなと思わされる。半世紀ちかく年の離れたひととはこのくらいのギャップがあるのだなとあらためて得心する。でもそんな年齢だけの問題だろうか。年齢だけの所為にしてはいけないとも思う、が、時代の過渡期なんだろうなとはひしひしと実感する。

考えかたのちがいといえば、退職交渉の流れででた話(なんでそんな話までがでてくるんだよと思ってしまうが、にんげんというのは自己の判断あるいは現在起こっていることを正当化しようとしてしまいがちな生きものなのでしかたないとは思う、わたしもその傾向は否めないので)として、わたしが当時(何年前だよ!!)の恋人のことを「恋人」と呼んでいたことについて、「なんだその変な言語感覚は」というように非難される場面があったのだが、その一点だけでもほんとうにわかりあうことができないのだなと思った。それは同性愛者のひとに失礼だと思います、とそこではじめてその語を使う理由を表明したが、それを「変」だと思う心性がさいあくなのだ。男尊女卑のホモフォビアであることはとうのむかしからわかっていたが、あらためてそういうものいいをされるとひじょうに不愉快なきもちになる。「男は男らしく、女は女らしく」と何かにつけていうすがたをよく見ていたが、いつの時代の認識だよとそのたびに思ったものだった。わたしもいつか若い世代のひとにそのように思われてしまうのだろうが、そのときに、そのひとたちのことを否定するようなにんげんにはなりたくないなと思う。


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差し入れられたビールで乾杯。キムチとオールレーズンをだす。たがいがみているげんじつのまったく異なる、地獄のような退職交渉の話をし、黒黒としたきもちを吐きだす。たたかったほうがいいといわれるが、そしてそのつもりでやりとりをしてきてはいたが、もうつかれはててしまってその気力がわかないという話をする。ねぎらう会をひらいてよとわらいながら伝え、解散。人生も、解散。