きみの隣でいっしょに泣くには

印刷所にだしていた作品が届く。(判型がでかくひろげるのがめんどうなので)まだ部分的にしか見ていないが、おそらくいい出来である。

「この問題についてあなたはどう思っているんですか?」と他人を炎上の渦中に巻きこむにんげんの心性。単純に不快であり、下劣だと思う。他者を自らの正義感において扇動すること。わたしはアジテーション自体に興味関心をもつが、そこに「正義」というモチベーションを介在させるのはサイテーなのではないか。「善意だけは痛みがない分アムウェイ的な暴力になった」(moools)。個々の選択を尊重する精神がそこでは失われている。じかに相手の尻を叩くのではなく、飽くまでも誘惑であれ、ということか?

そもそもわたしは、親が大量殺人者であろうが、子が連続レイプ犯であろうが、その血縁者には何ら(というのは言い過ぎかもしれないが)関係のないことである、と考えるにんげんである。なぜ、他者が起こした事象の責任を「わたし」が引き受けなければいけないのか?(会社組織はべつである、すべてはその名の通り「最高責任者」が負うべきだ、この認識の差は何だろうか?)。ついったにあらわれるやりとりを目にしていると世界はさいあくである、という気分がいやましていく。

草刈りによって奮われた筋肉がその日の夕方あたりからむり!と叫んでいて、とくに太もも裏に悪寒のような痛みが走っていてつらい。翌日になってもそれは消えておらず、ヒイヒイ言いながら叔父家族を迎える。従姉妹とは何年ぶりの対面か? 妹よりも背が高くなっており、それだけでおお、と感動する。親戚のおじさんおばさんはこのようなきもちでわれわれをながめていたのだろうか。彼女はデザイン系のブラック企業ではたらいているそうである。本人ではなく、彼女の母がしゃべりつづけていたので、みじかい滞在のあいだ、とくに直接言葉を交わすことはなかった。

ここ数年ずっとほしいものメモに書き入れてあった『横尾忠則全装幀集』が届く。彼の展覧会や書店で幾度も頁をめくってはいたが、あらためて手にしてみて、やはりすさまじいなと圧倒的される。大学生の頃は横尾忠則のことをあまり肯定的に(?)とらえていなかったが、年を取るにつれ、その偉大さが身にしみてわかるようになってきていた。真に歴史的なグラフィックデザイナのひとりである。



589


自分では何の世話もしないくせに、勝手に「祖母の感情」をでっち上げて「施設に入れた方がいいのでは」とのたまう父のことが許せない。「あなたのためを思って」論法をつかうにんげんは何人たりとも信用することができない。いままでの人生、この語法を用いるにんげんが「あなた」を思っていた例をたったのひとつも見たことがない。わたしは「わたし」を経由して「あなた」を思うひとのことを信頼する。「わたし」のために「あなた」をつかうにんげんのことをわたしは軽蔑する。


▼もう7年も前のわたしが同じことを言っている
seimeikatsudou.hatenablog.com


父母間のカスなコミュニケーションはわたしの実作にも大いに影響を与えているのだろうか?と思いかえすが、わたしが「制作」をはじめたのは一人暮らしをしてからであり、家族にその根を見るような文学研究的視点をそこに差し入れるのであれば、義父ではなく実父の存在が浮き上がってくる。オイディプス! 愛の帰結がこんな屑以下のやりとりになるという作例はわたしを失望させるにあまりある。そもそも見ていてイライラする。突発的には早く死んでほしいとさえ思う。ひどい話だろうか? その自分の声にどっちがひどい話なのかと問いかえしたいほどにカスだと思う。何が? 踏み外ししかない対話のありかたが。アムウェイ的な暴力のはねかえり。教養がないからこうなる。本を読まないからこうなる。そう思ってしまうわたしの文化主義、エリーティズムディスタンクシオン……。

制作、データ上ではすべてが完成する。明日からフィジカル化およびアナログでの制作に全力を注ぐ。

夜、昨日のあまりで丼、茄子の漬物。うまい。漬物は微妙。刻んでラー油マヨで和えて食べた。

自分のなかでの「うまい漫画」とイコールでむすばれる作家である黒田硫黄の新刊『ころぶところがる』、ネット書店では軒並み品切れでもっと刷ってくれや、、と嘆いていたのだが、近場(けっして近場ではない)の書店には面陳で3冊も置かれていて、こんなど田舎によくぞ、、とぶじゲットする。シュリンクをやぶるのは、つまり読むのはしばらくあとである。