賦活のヴァーリー

埼玉県立近代美術館で「ボイス+パレルモ」展を観る。作品よりも批評がでかくなっているように見えるという点で、ストローブ=ユイレの映画を観たときのきもちになる。パレルモの窓枠を壁に移設する作品や、ボイスの美術学校での政治運動的なアクションなど、おもしろさが垣間見える瞬間はあるのだが、通覧して衝撃的なコンタクトが生じることはなかった。パレルモについて、絵画の伝統を打ち破ろうとしている、というような紹介がキャプションや配布用の小冊子においてされていたが、額縁やケースがそこにあるだけで「作品」らしく見えてしまうことのつよさは、やぶられるべき伝統性や既成概念に依拠しているがゆえだともみなされてしまうのでは、とも思った。作品をみながら「無駄」のことを考え、わたしはあらゆる無駄が削ぎ落とされることのない世界を想像する。わたしにとっての無駄や、あなたにとっての無駄が、べつのだれかにとって大切なものや、たのしみであることに思いを至らす。何もかもが効率化され、資本の論理によってのみうごく世界を、わたしはつよく否定する。

池袋のジュンク堂で1-2時間ふらふらする。でかい書店のたのしさ。雑誌棚、デザイン棚、人文棚、文芸棚を主に渉猟する。アイデアの『現代日本のブックデザイン史 1996-2020』をもとにした書籍版の座談をいくつかつまみ読みする。「間にあっていない者」として、「遅れ」のことを考える。フォークナーの『土にまみれた旗』のカバーの紙の質感にどよどよする。装丁は『現代日本の〜』の編者のひとりでもある水戸部功。彼が手がけた本の面陳率の高さ。わたしも書籍のデザインがしたい。買いたい本は山ほどあるが、お金がないので何も買わずに店をでる。屯ちんでラーメンを食べて帰る。20時以降もやってる店のありがたさ。

親の会社の都合で東京滞在がさらにのびることになる。2021年8月という時期において、いまだに回復者に対して陰性証明書をだせといってくる信じがたい会社(しかも検査費用は自己負担)。厚労省の通知を見てねえのかおまえはよ!と窓口対応する当人であればわたしはバチバチにたたかう気満々になるが、親を経由せざるを得ないゆえ、そして親が理知よりも感情の動物であるがゆえ(にんげんはけっきょくだれしもがそうであるという立場にわたしは立っていますが)、このざまとなる。かなしいね。

移動中はコレットの『青い麦』を読んでいた。もうなんども書いている気がするが、いちいち文章が巧すぎる。嫌味のない技巧にバチバチと目を突かれる。作家もそうなのだろうが、訳者の力量のすさまじさ。手塚伸一。おぼえた。


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宣言を基準にするという暴挙にでられ、下手したら9月、年末とズルズルと滞在が伸びていきそうな気配があったが、一夜明けてその令はやぶられた。今月中には帰宅できそうだ。

尾田栄一郎『ワンピース』を無料公開されている910話まで読む。今回はじめて目にするドレスローザ編やホールケーキアイランド編などに触れるに、いよいよ折りかえしの域に入っているのだなと感慨深くなる。わたしがさいしょに単行本を手にとったのは小学生の頃だ。ながい歴史のあつみ。

キュンチョメ「クチがケガレになった日、私は唾液で花を育てようと思った」@日本橋NICA。新聞家「帰る」を観た以来の来訪。かえりみち、現代アートの領域における映像のスタイル、のことを考えた。ドキュメンタリー、ビデオエッセイ、劇映画、純粋映像……この区分が適当かどうかはさだかでないが、たとえば本展の《A Tiger Eaten By Pigeons》はビデオエッセイに入るとして、その形式の甘さ(遊びと言い換えてもよい)をどう見るのか?が気になった。わたしはこうした自由さを好ましく思うと同時に、強度という視点からながめた際のひっかかりにもなりうると感じ、それが形式の選択にもおおきくかかわっているのだなといまさらながら思い至ったのだった。

Tさん、Yさん、Hさん、Mさんと会合。パトロン募集ツイキャスでまっさきに手を挙げてくれたYさんがわたしを助けてくれる(TさんもHさんも助けてくれた、リキッドレインボウがやってきておれたちみんなを助けてくれなくても、マイフレンズがみんなが助けてくれる、深夜のタクシーにやさしくつめこまれ、わたしはベッドの上で山崎ハコのヘルプミーを聴いた、のは前日だったかもしれない、代わりにQさんにスピッツを爆音で聴かせた、この街でおれ以外きみのかわいさをしらない、そのことに希望を見いだすのがわたしで、そのことにぜつぼうを見いだすのがあなただよ(あるいはその逆、その逆、その逆、その逆……