アグニの紗幕

園子温希望の国』。あまりよくなかった。長島県での地震原発事故という設定や、福島以後の話であるというお膳立てはすぐれていると思ったが、原発問題を3.11後にフィクションであつかうことのむつかしさを思った。被災地のひとびとの差別や、放射性物質に対する姿勢の差異が生む亀裂、避難所でのもめごとなど、実情をなぞっているだけでは創作である意味はほとんどないに等しい。せんじつ観た作品ではそれ以前の話だったが、あまりにもつよくはげしい「げんじつ」を、いかにして虚構のなかで扱うかということが重要になる。そのわるくない例としてパッと浮かんだなかでは、多和田葉子『献灯使』や、岡田利規『部屋に流れる時間の旅』のような手つきが考えられる(後者、「よさがわからなかった」と書いてあるが、手つき自体の話をしている)。ただ、迂回せずに、真っ向から扱おうという本作の姿勢は、2012年公開というその速度も相まって称賛に値するのではないか。するかどうかはさておいて、げんじつの出来事に即座にリアクトできるかどうかは作家の資質に関わることである。

よくなかったとはいいつつも、よい点もあった。自宅の庭にできた「圏内/圏外」を分け隔てる境界を前にして認知症のおばあちゃんが叫ぶ「日本人が日本を歩いてどうして国に怒られるの!」という台詞は印象的だ。下手をするとレイシズムに回収されうる危険性のある語句選択だが、その怒りと哀しみはひしひしとこちらに伝わってくる。この庭に避難する/しないの境界線があるという舞台設定は、じっさいに園子温が被災地に取材をして遭遇した事例がもとになっているという。げんじつと虚構の境界が曖昧になってしまった「以後」の世界をうまく作品化しえた箇所だと思った。

たったひとり、防護服を着て町を歩く子を身篭った女性のすがたをおさめているのもよかった。その「場違いさ」によって生じる「滑稽さ」に対峙するとき、わたしたちは自身の倫理を問われている。我が子を守ろうという母の意志のあらわれを、どうしてわらってしまうのだろうか。放射能に過敏に反応するひとたちを指して「放射脳」と馬鹿にしくさるスラングがあるが、そうした冷笑的な態度よりも、本作における「場違い」な姿勢をわたしは信頼したい。そもそもその「場」はちがってなどいないはずであり、彼女が夫に対していうように「見えない戦争」がおこなわれている「場」であることにちがいはないのだから。

中村真夕『ナオトひとりっきり』を半ばまで観たところでちからつき、こんな観かたはよくないなと思いつつ、中座して仮眠する。夕方ころに起き、スライスれんこんの磯辺揚げ風と、ペッパー衣の塩じゃけフライをつくり、食卓をかこんだのち、再度眠りに落ちる。料理中、左手の人差し指をやけどし、疼痛に寝入りを妨げられる。


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ずいぶんながい時間寝ていると、夢のなかにいげちゃんがあらわれ、ここは天国か?となる。なんとわたしの隣にいた。夢が途切れたところで天国から泣く泣く這いだし、ナオトひとりっきりのつづきを観ながら朝食を摂る。こちらもあまりよい映画ではなかった。原発20km圏内に自らの意志で残り、土地に放置された動物たちの世話をしている男を主役にしたドキュメンタリーで、「人物」だけではいい映画にはならないといういい事例である。構成がふにゃふにゃなのだ。申し訳程度の農林省前のデモの様子など、なんのためにインサートされているのかよくわからない。そうした政治性を取り入れるのであれば、ナオトの家の壁に書かれた安倍昭恵のサインを深掘りしたほうがぜったいにおもしろくなるだろう(そこには「愛♡」とまで書かれてある!)。

また、ナオトの育てている牛や猫を通じて、被曝下における妊娠/出産というテーマが作品には浮かび上がるのだが、震災以後に関係がむすばれたという肝心のナオトの妻子がいっさい画面にでてこないのがもったいない。作家は2013年から2014年の複数回に分けてナオトのもとを訪ねているが、ただそれを時系列的にならべたところで「映画」は成立しないのである。「甘さ」が魅力となって画面にあらわれる映画もあるが、本作はそうした点においても称賛できる作品ではないのではと思ってしまった。そのよしあしはべつにして、作品のなかに作家のすがたが見えないのも気になった。内容とは関係ないが、寺尾紗穂が主題歌を歌っていておどろいた。