同速の口笛

ようやく芽生えたがんばろうと思うきもちを、どのようにして枯らさずに守ってやれるか。

朝倉かすみ『てらさふ』を6章のあたままで。起承転結でいえば転の域。そっちにころぶんだーとたのしくなる。

デヴィッド・リンチツイン・ピークス』(1990-1991)シーズン1の1-3話観る。2話のラスト、クーパーの夢が物語にからみはじめたあたりから作品のアクセルがグッと踏みこまれた感じ。毎話新たな人物が意味深に登場していくが、このような語りを文章でやるとどうなるんだろうと思いながら観ていた。ちゃんと読んだことないがピンチョンとか? それなりの尺を取って冒頭に流される「これまでのあらすじ」がおもしろい。時系列の操作やシーン選択によって重要度が決定づけられる編集のたのしさがある。暴力を振るう際にラジカセのスイッチをONにしたり(巨大化したように見える空間のみせかたもうまい)、ビンタをされてケーキにタバコが突き刺さったりするなどの演出がふざけていていい。石当てで犯人を絞っていくオカルト推理のくだらなさ。娘の死を嘆く父がのしかかることによって上下運動する棺の馬鹿馬鹿しさ。

夜、豚汁。豚バラ・ごぼう・長ねぎ・大根・里芋。生姜・にんにく・あごだし・酒・ごま油・塩胡椒・醤油・味噌。

ブックマークに登録してあるブログを読んでいると、日曜の夜23時頃にいまから資料をつくって先方に送れないかなと上司から打診されるくだりがあり、書き手は絶句しつつもそれを了承するのだが、読んでいて、自分のなかではげしく点火するものがあった。時間外労働をさも当然のように要請する上司も、それを拒否せずに請け負う部下も、日曜の夜中に資料が送られてきて「あ、こんな時間まで向こうのひとたちはしごとをしているんだ」と思う先方も、そう思わせようとする資料を送る側の思惑も、あるいはそうした関係性によってまわる社会も、すべて破壊しつくされればいい。かつてその現場に身を置くことで培かわれた怒りは、消えずにずっと燻っていることがわかる。永遠の焦土。

明け方から夕方までよくはたらく。


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田中裕太『魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身! キュアモフルン!』(2016)。ミラクルライトの説明→変身→タイトルバック→オープニング中に戦闘→名前入りカットインの挿入、とこれまでのプリキュア映画の蓄積が詰まりに詰まった快い幕開け。なのだが、作画の感じがこれまでのプリキュアとちがっていて、ちょっと違和感がある。何より、編集があまりきもちよくない。それともコンテが微妙なのだろうか?とあまり好ましくない印象ではじめのほうは観ていったのだが、タイトルにもある「キュアモフルン」の誕生には心がうごかされた。なんてったって妖精がプリキュアになるのである! それだけで勝ち!

「二人性」回帰の話を前作に触れた折にしたが、とにかく「手つなぎ」描写にちからを入れていたのもよかった。挿入歌多めのスタイルも、これまでのミュージカル的作風を取り入れている感じがあり、おもしろかった。ナウシカっぽさもある魔法界の夜の色調・背景は、アンニュイかつドリーミーなムードをつくっていて、目を惹かれた。モフルンとキュアミラクルが再会するシーンでは、過剰なまでの物理的な距離(流し見していた妹が思わず「遠くね?」とツッコミを入れていた)とそこからもたらされる声の遠さによって、ふたりがだんだんと近づいていくさまを演出していて、かなり攻めているなと思った。映画館で体験したかった。一方、戦闘シーンでのカメラワークやアクションがこれまでの作品に比べて弱い気がしたのだが、分身の術みたいな決め技はカッコよかった。クマタという別名をもつダークマターという敵キャラの名づけかたも、ひょうきんさがあってよかった。

夜、はんぺんチーズ焼き、ちくわと豆腐と白菜の味噌汁。食べずに寝る。3時間ほどでめざめてしまい、食事を摂る。ブログを書く。

つくったものに対する長い感想文がとどき、いたく感動する。作品のなかに練りこまれているわたしのこんがらがった無意識が、一本一本ていねいにほどかれてならべてあって、そうか、そうだったのかと自分の手つきの理由を、他者の言葉によって理解する。それは愉快なことである。

富野由悠季機動戦士ガンダムZZ』(1986-1987)34-最終47話まで。これって、あり得たかもしれないシャアの話なのか!?と最終盤に突如出現したセイラのすがたを見て思った。よくよく考えてみればシャアとセイラの関係に対応するようにジュドーにもリィナという妹がおり、なおかつプルとプルツーの姉妹関係や、ムーン・ムーンの双子、漁村の兄妹など、作品を通じてしつこく兄弟関係にスポットを当てている。熟慮するつもりもその観点から観かえすつもりもないが、そう考えると逆シャア再見にひとつたのしみが加わったよう。だけどセイラって逆シャアにいなかったような、、

34話、船を離れていたブライトが、ネオ・ジオンの襲撃に際して「なんで動いてないんだ?」とアーガマに憤っていたのに、いざ飛び立つと「誰が動かしている!」と感情が変遷しているのがよかった。状況によって変動するにんげんのこころ! あるいは、台詞が示す状況の変動! 今回のタイトルは「カミーユの声」だが、ラストでzのOP曲である「水の星へ愛を込めて」を流す演出のにくさと言ったらなかった。さらには次回予告でその死が宣告されるハヤト! じっさいの35話では、ハヤト機に直撃後、ZZ合体シーンを挟みこんでから撃墜させる編集にしびれた。37話ではブライトが退場し、子供たち≒ニュータイプが前面に押しだされることになる。その目線を敵方にむけてみても、ハマーンだって、グレミーだって、もちろんプルツーも決して大人ではない。そんななか可変MAジャムル・フィンを駆って登場するヴェテランの3D隊(ダニー、デル、デューン)のカッコよさったらないが、38話ででてきたっきり彼らの顔がふたたび画面にあらわれることはない。40話では子供の盗人集団がでてくるが、それはかつてのジュドーたちの似姿でもある。ずいぶんと序盤のコメディ展開から遠くにきた感があるが、中華なコロニーで旧式MS大戦が起こるひょうきんさもまだ残っている(ハマーンアッガイに搭乗する!)。

それが象徴的に突き破られるのは、物語から長らく退場していたマシュマーが引き起こす、自身の掲げていた「騎士道」とはまったくそぐわない「コロニー落とし」によってである。ZZの最終盤は、ニュータイプの亜流としての強化人間戦争と成り果てるが、あれだけ明るいキャラクターだった彼やキャラ・スーンがその犠牲となった末に爆散するさまはさびしいものがある。強化の実態が暗に示されるだけなのも効いている。対比の構造でいえば、グレミーをルーに落とさせるのも冴えていた。

おわりのムードはエルガイムにちょっと似ていた。再会と、旅立ち。ジュドーが思わずハマーンを救ってしまう場面があった(42話)が、そして最後の戦いでふたりが通じあうかのような描写があったが、そのことが彼を新たな地へと旅立たせたのだろうか。全体としては、エルガイムと同程度の作品としてわたしの胸のうちに刻まれた。

夜、人参とレタスのハリッサマヨサラダ、アジとカレイのみりん干し。魚があまり食卓にのぼらないという妹からのリクエスト、祖母の健脚を願いながら買いだしに連れて歩き、帰り道にふたりで三日月をながめた。彼女の体力は数ヶ月前よりも落ちている。カレイのほうが美味だった。