かしこい足並み

同人誌の2号を発刊。しらないひとにとどいてほしい。SNSをひさびさに稼働させる。

干刈あがた『十一歳の自転車 物は物にして物にあらず物語』、1編読む。

夜、にんにくきかせた鶏と蕪のスープ、ねぎのせ三角揚げを焼いたもの。

同人会議。ぶじ刊行できたことをおたがい祝い労いつつ、邦キチの池ちゃんの話、シュレーバーの話、日本のネオリベムードの話などを4-5時間くらい話しこむ。社会構造に目を向けず、起きている出来事にしか意識を向けない「われわれ」のむなしさ。教育の失敗? この状況って変わりうるのか?とあたまを悩ませた。弱肉強食の世をのぞんでいるひとびとが、弱者によるちゃぶだいがえしに文句を垂れるのはおかしいというOの話、もっともだと思った。いま起きている反乱は、おまえらの希望する世界が生みだす必然でしかない。そんな世界、どう考えたってまちがっている。

ここで立ち止まって考えてみたいのは、ネオリベを憎悪しつつも「反乱」を称揚するわたしは「弱肉強食」の世界を望んでいるのかということだ。答えは否である。〈世界〉そのものの否定としての反乱を肯定しているだけであって、その出自を肯定しているわけではない。たとえ弱肉強食の世界でなかろうと、こぼれ落ちるにんげんはいるわけであって、そのひとのどうしようもないさいごの抗いをわたしはむやみに咎めたくはない。その声に、きちんと耳を澄ませたい。これは先日書いたことと通じている。


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富野由悠季機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)。10年ぶりくらいの再見。泣く。かつて観たときのおもしろさの記憶は視聴のあいだに色褪せていったが、そのぶん、べつのおもしろさが作品の輪郭線を新たに引きなおしていった。わたしがなみだを流しているのは、エモーショナルを炸裂させる画面と、高度に抽象化された言葉の応酬のとりあわせが生む「圧倒的なわけのわからなさ」にである。わたしのなかでは、わけのわからぬままに打ちのめされる感動こそが、あらゆる感動のなかでいっとう胸を打つものとしてあるので、もうこのおわりだけで万事OKみたいなところがある。

クェスが父とその愛人とともに飛行機に搭乗しているシーン、カットを割って左右から彼らの会話をとらえていて、印象にのこった。同じ画面内で「家族」として隣りあって座っていても、そこには切断があることを視覚的に伝えてくれる。これはのちに彼らが搭乗するシャトルにあわや隕石衝突かという場面で、神に祈る父に向かって唾を吐き捨てるクェスの動作を準備してもいる。観かえすまではアムロvs.シャアの印象だけがつよくのこっていたのだが、彼女と、その対となるハサウェイにも結構な度合いでカメラが向けられていて、作品全体への認識をあらためさせられた。以下は大人たちの影響を過敏に受けとるふたりがニュータイプ論をかけあう場面。

「インドのクリスチーナが言ってたのとちがうな。ニュータイプは、ものとかひとの存在を正確に理解できるひとのことだよ。それもさ、どんなに距離が離れていてもそういうのがわかるようになるの」
「ああ。人間って、地球だけに住んでいたときはあたまの細胞の半分しかつかってなかったんだろ? それが、宇宙にでて、のこりのあたまの部分を使うようになれば、テレパシーだって予知能力だって高くなるよな。じゃないと、地球とコロニーで暮らしてたら家族だなんて思えなくなっちゃうもん」
「あんたんとこの家族はわかりあってんだ?」
「親父、いつもうるさいけどな」
「うちなんか、家族で地球にいたんだよ」

遠くても、わかる。離れていても、わかりあえる。ここで話されていることは、ZZでジュドーとリィナの関係性をもとにエルとルーが話していたこととつながる。ふたつの会話をつなげれば、にんげんが原初的にもっていた潜在能力としての「テレパシー」や「予知能力」が、テクノロジーに寄りかかる生活によって失われていき、それが宇宙にでることによって再活性化することになるという流れだ。「じゃないと、地球とコロニーで暮らしてたら家族だなんて思えなくなっちゃう」に、わたしはつよい説得力を感じる。すごい想像力だと思う。

一方、「大人」のシャアとナナイはこのように言葉を交わす。

「私は、宇宙にでた人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにするためには、誰かが人類の業を背負わなければならない」
「それでいいのですか? 大佐はアムロを見返したいためにこんどの作戦を思いついたのでしょ?」
「私はそんなに小さい男か?」
アムロ・レイはやさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男です。女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」

おたがいを家族だと思いあえるようなニュータイプの特性を「やさしさ」と名づけること。しかし、それは欺瞞なのではないかとナナイはシャアのきもちを代弁する。地球潰しをアムロ咎められたシャアは、ならば「重力に魂を縛られ」、地球にへばりついて自分のことだけしか考えられない「愚民どもすべて」に「いますぐ」「叡智を授けてみせろ」と挑発し、その言葉に自身の家族を省みて瞬間的に共感を──あるいはアムロに反発を──おぼえたクェスは、この問答をきっかけにアムロ-ハサウェイのもとから離れていくことになる。このシャアのいらだちは単に独りよがりなものではなく、電車に同乗した民衆たちから花や歌を贈られるシーンがあるように、スペースノイドのあいだでは彼はカリスマ的な存在として熱烈に支持されている。シャアの考えがひとびとの深いところまで浸透しているわけではないだろうが、肌感覚での共感がそこにはあるのだ。

細々とした点にも触れていくと、ドック内でチェーンがνガンダムコクピット目掛けて飛んでいく際の動作がとてもよかった。アムロを部屋の前で待つシーンとともに、彼女のときめきが身体にあらわれている。身体といえば、ハサウェイが漫画のようなはしゃぎ脚を披露するカットがあり、ヌケのピークとしてその場面を見た。緩急のつけかたがおもしろかったのも、今回観かえしていて気づいた点だ。かわいさということであれば、ギュネイの搭乗するホビー・ハイザックのカラーリングがちょうキュートだった。ラストのアムロコクピットに必死にしがみついてガタガタやってる描写も、滑稽さと紙一重の演出で、このようにして振り切れたシーンが名場面として残るのだと思った。また、アクシズが落ちてくるかもしれない、という場面でミライとチェーミンがホンコンを脱出しようとする際、街中での爆破テロのカットがインサートされているが、それに対してひとびとがほとんど無反応であることが印象にのこった。地球の荒廃ぶりをよく伝えるシーンのように思えた。

逆シャアはほぼ「スピリチュアル」といっていい結末を迎えるが(そもそもニュータイプニューエイジ思想の賜物だ)、その片棒を担ぎたくない一心でしごとを辞めたわたしが本作をこんなにも受け入れてしまうのはなんでだろうかと思った。フィクション(嘘っぱち)における「奇跡」のような描写に惹かれてしまうことと、げんじつにおける「(嘘っぱちの)奇跡」に嫌悪をおぼえることは、根を同じにしている気がする。

スピりにも、先に触れた「叡智」にも関連するが、「しかしこの暖かさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ、アムロ!」「わかってるよ! だから、世界にひとの心の光を見せなけりゃならないんだろ!」というラストの問答は、後年のロランの発言につながっていくものでもあるだろう。そこには共通してひとへの信頼を見いだすことができる。アムロとシャアという、にんげんへの信頼のふたとおりの道のりが、サイコフレームのかがやきのなかでとけあい、地球を照らす光源として結実する。その光は、いま発されたばかりの産声とも共鳴し、未来へと注がれる。泣くしかない。

冬野梅子の『まじめな会社員』単行本化の報、うれしい。大山海『奈良へ』といっしょにひさびさに漫画を買おうかなという気分。川勝徳重の『アントロポセンの犬泥棒』も。