応えるために

起床。昨日ののこりを食べつつイデオン31-37話。途中に校正もはさんで送る。つぎの原稿もくるので印刷する。食事の用意もする。しめじとそせじと玉ねぎのミルクスープ、アボカドの塩昆布和え、冷凍餃子。最終話まで突っ走りたかったが、時間が足りなかったので2話のこした。「打ち切り」であるという前情報はしっていたが、だとしてもあと2話でどう決着つけるんだ!?という感じ。現状、クライマックス感はダンバインのほうがあった。ちょうど明日の深夜にWOWOW接触篇/発動篇が放映されるそうなので、それに間に合うようにこちらも観てみるか、という感じ。と思ったらそもそも劇場版は配信されていなかった。めちゃくちゃショックである。

深夜にチェックした原稿を送り込む。レイアウトされたゲラをながめていると自分のミスに気づき、落ちこむと同時に入稿する前でよかったなあとなる。幾度も確認することの大切さ。しごとをおえ、湯船に沈み、イデオンを最終39話まで観、寝る。

富野由悠季(当時は富野喜幸名義)『伝説巨神イデオン』。「打ち切り」作品であることは事前に目にしていたので、おわりかたについてどうこういうきもちはないのだけれども、TV版で描かれなかった結末を補完している劇場版をつづけて観る気満々であったのに観れないという状態で、不完全燃焼感がつよい。そんなことをいいつつも、TV版単体でも類稀なる魅力をそなえた作品であることには変わりない。せんじつヒープリで人類に反省を突きつけている描写を見たが、本作でも「人間のエゴ」との対峙が描かれていて、40年も経ってひとは何にも変わりやしないのかとかなしくなったり、ラジオで震災特集なんかを企画していると、人間にはコントロールできない無限のちからである「イデ」が、まさしく「原子力」の暗喩として浮き上がってきたりもする(じっさい、このことが踏まえられていないわけがない)。

細部に目をやれば、たとえば親との別れのシーンで、ベスの口もとをうごかす芝居を入れながら、その声は入れずにBGMで語る省略の演出や、ポリゴンフラッシュ(ポケモンショック)もびっくりの点滅演出にいろんな意味でぱちくりさせられたり、長い長い宇宙漂流生活に発狂して宇宙に飛びだした男に対して「帰りたい家なんて自分でつくるもんだ!」とはげますコスモの台詞に耳をつらぬかれたりする。終盤はいよいよ死の匂いが立ちこめ、流れ弾に当たってあっさりと命を落とすリンや、そのかなしみに暮れるソロシップのクルーたちの背景に、彼ら「異星人」のたたかいに巻きこまれて廃墟になった街にアジアンの民たちがボロボロになりながらも生活しているさまが描きこまれるに至っては、「戦争」がもたらす悲劇の断面が、ふくざつさを伴ってこちらに迫ってくる。

なんといっても最終話一歩手前の38話「宇宙の逃亡者」はすばらしい出来で、憎しみあっていたはずの地球(ロゴ・ダウ)のひとびとと、バッフ・クランのひとびとのあいだに生まれた愛のひとつのかたちであるシェリルとギジェのさいごの逢瀬シーンなどは、舌を巻く画と台詞の応酬で、ひどく感動した。妹の死にアルコールをもってどうにか対処しようとするシェリルと、そんな彼女を不器用ながらも支えようとするギジェが、情感をもった声優の声(シェリル役の井上瑤の演技はとりわけすさまじい!)と、ダイナミックなフレーミング(なんだあのシェリルのでかい足が手前にあるカットは!)によってさらなるかがやきを与えられ、だきしめあって、涙を流す。

シェリル「憎しみあってもいなかったのよ、わたしたち……。むしろ、こうやって愛しあうことだってできたのよ。地球もバッフ・クランも……」

もうひとつの愛の形象であるベスとカララも、戦争の合間の、ようやく生まれたひとときの休息にソロ・シップのブリッジで耳かきなどして睦じい時間を過ごしている。それを目撃したカーシャが、ぷりぷりしながら夜通しイデオンの整備をしているコスモを訪ねていき、そのまま操縦席で寝てしまう愛らしさなど、ひじょうに胸が締めつけられるではないか。そう、いつもツンツンして殺気立っているカーシャだって、誰かを愛したいし、愛されたいのだ。そんな彼女の精一杯の行動が、コスモのもとに行って、とくに何をするわけでもなく、そこで寝てしまうこと。寝息を立てる彼女にシーツをかけて電気を消してやるコスモのふるまいも、さいしょの頃の彼には考えられないほどやさしくって、泣けてくる。13話「異星人を撃て」もすばらしい回だったが、この38話もつよく心にのこる回だった。

最終39話「コスモスに君と」も、地球人ベスとバッフ・クラン人カララのあいだで生まれんとする愛の結晶としての「赤ちゃん」を、さいごの希望として託しているストーリーにあたまを打たれる思いがした。イデは愛のちからという示唆が序盤であったが、ここに落とすのかという電撃が走った。しかしながら、その「愛」をカララの父=異なる者の代表が拒絶するという構造も、一筋縄でいかない本作のありかたを如実にあらわしていて、そのまま最終決戦になだれこむ展開ふくめてクライマックスに相応しい話のはこびだった。ユーネクスト、劇場版を配信してくれ!


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起床。イデオンの代わりに『無敵超人ザンボット3』を観はじめる。とりあえず5話まで。これまたきょうれつなストーリー。凶悪な殺戮マシーンであるメカ・ブーストたちを使役して襲来するガイゾックの魔の手から、地球を守るためにたたかう主人公たち家族が、「おまえらの所為で街がめちゃくちゃだ!」と守っているはずの地球のひとびとから石を投げられる構造は、イデオンにも受け継がれていた「悲劇」のドラマツルギーだ。冒頭から容赦なく悪者のように扱われる神(じん)一家のすがたは、あまりにもかなしい。今後物語がさらにそのかなしみの坂をころがっていくことを思うと、いまから胸がきしむようだ。

また、戦闘家族の表象は、数十年のときを隔てて細田守の『サマーウォーズ』にも引き継がれていると観ていて思った。イデオンを観ていて庵野秀明トップをねらえ!』のことを思いだしたように(イデオンが先行作品である)、富野作品を観ていると作品間の遺伝子の存在をつよく感じるし、その影響力のおおきさを思いしらされる。

夕食。牛肉と赤インゲンの炒め煮、もやしと卵の中華スープ。食後は感想を書きそびれてたまっていたブログを書き、〆切が迫っているというのにまったく手をつけていないグラフィックのコンペと、これまた完成していない月末投稿の掌編小説にこころを焦らせながら、麻雀を打つ。どちらももう残余の時間はほとんどのこっていないのだけれども、どんなときだって未来のわたしに期待!