滅私の死滅

かつおのたたき。昨日のあまり。インスタント味噌汁長ねぎのやつ。とにかくポテサララブのラブ。テキストの執筆。テキストのレイアウト。執筆のための資料を探していたら、安吾について書いた大学時代のレポートがでてきて、読む。その存在をほとんどおぼえていなかったことにおどろく。UN-GOとか、観てもいないのに触れてる記述があってやめてくれと思う。

さまざまなことがゆきづまると絵を描く。絵といってもスマホの画面にゆびさきでちょろっと書いただけの簡易なイラストで、それがここにあっぷされる画像になっている。付された番号は、自動的にファイルにつくナンバリングをそのまま書き写したものである。さいきんの風潮である多眼はべつに自身のフェティッシュである自覚はないのだが、どこか憑かれているのかゆびがそう描く。

夜、ラジオへの感想が複数名からとどく。センシティブな話をしたからか、震災の日当日ということもあってか、なかには長文の賛辞もあって、ひじょうにありがたいきもちになる。「とどくところにはとどく」という意識の存在が、わたしをこれまでなんとかやってこさせていて、その意識はこうした経験のつみかさねによって支えられている。そして何よりも、いつかであうだろう「あなた」のために、わたしは何かをつくりつづけている。ギヨーム・ブラック『やさしい人』の惹句「ロマンチックだが、代償は大きい」が脳裏をよぎる。

スマホのイヤホン端子がイカれていて、寝床に入ってゆーちゅーぶなどを観ていたりすると、勝手に音声入力が起動したり、音楽の再生がはじまったりしてとても不便だ。


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鶏肉とほうれん草を塩こしょうで焼き、富野由悠季無敵超人ザンボット3』を観ながら朝食。20話から最終23話まで観る。傑作だ。ダンバインエルガイムイデオン(TV版)→ザンボットと観てきたが、ひょっとするといちばん強度のある作品なのではないか。ビアル星人と地球人、神ファミリーとガイゾックといった、異なる存在同士のコンタクト≒コンフリクトに生じる軋轢を冷徹に見つめ、狂気的なまでのちぎれた倫理をもってその前提となる倫理の正当性をつきくずさんとする(ハネケだ!)語り口。そこで展開されるのは次々に命が失われていく壮絶な物語であるが、主人公・神勝平=大山のぶ代を中心としたキャラクターのひょうきんさでユーモアを咲かせるのも忘れない。23話というみじかさも功を成しているのか、ドラマの濃厚さや密度がずば抜けているのも特徴だ。作画のトータルな水準という点では他の作品に軍配が上がるかもしれないが、金田伊功の荒々しい迫力をもった劇画調のタッチや、随所で効果的に使用される色調や輪郭線を強調した演出など、観るべき箇所は多くある。とりわけ22話「ブッチャー最後の日」における命を賭して妻を地球に送り届けんとす父・源五郎の気迫は必見である。

また、22話に関しては、恵子の放つ「勝平、お願い! 戦って!」を耳にして、庵野秀明トップをねらえ!』5話「お願い!! 愛に時間を!」でのノリコの台詞「お願い! カズミ! 戦って!」の源流はここにあるのだとしったのも、ロボットアニメの系譜をとらえる上でたのしい体験だった。頑迷なオタクが後者を指して「パクリ」と糾弾するすがたを目にしたが、このゆたかさをそうした言葉でしか語れないことのかなしさに身が裂かれる思いがした。「映画史」というものをいちどでも考えたことがあれば、あるいは、ものをつくるということに真摯に向きあったことがあれば、このような発言はけっしてできないはずである。

第1話「ザンボ・エース登場」でも触れられていたが、20話「決戦前夜」で明確に語られる、ザンボット3パイロットたちを養成した睡眠学習装置のエピソードはきょうれつだ。まだ10代前半の少年少女である勝平・宇宙太・恵子の3人は、祖父(勝平と宇宙太にとっては・のような存在)・兵左衛門の取り計らいによってザンボット3の操縦法を自身が気づかぬうちに睡眠学習していたのだが、その際に死を恐れぬ闘士として、マインドまでをも洗脳されていたことが明かされるのである。この事実をしったとき、タイトルに冠された「無敵超人」が、これまでとは異なるひびきかたで聴こえはじめる。常人ではないのだ。祖父が自身の孫(親戚)を徹底した戦闘マシーンとして育て上げる構図の苛烈さもさることながら、最終23話「燃える宇宙」にて炸裂する、そうやって育てられたがゆえの結末もすさまじいものがある。不死身かのように思える敵機・バンドックに特攻してザンブルとザンベースがひしゃげていくさま、そのつぶれかた、瓦解していく画自体が、悲劇をはげしく叫ぶ。

いまにも大気圏で燃え尽きようとする勝平を救うために、ボロになったビアル1号でバンドックに体当たりするシーンなどは、本作の放映から10年後につくられた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』への血脈をも見いだすことができる。「たかが石ころひとつ、ガンダムで押し出してやる!」とアムロアクシズに逆らうすがたの原型がここにはある。

最後に勝平の放つ「寒いよ、父ちゃん……」という台詞も忘れがたい衝撃を与えてくれる。これは大山のぶ代のアドリブだと目にしたのだが、ほんとうだとすれば天才すぎないだろうか?*1 この凍えこそが、勝平を、神ファミリーを取り囲んでいたものの正体であり、ガイゾックやブッチャーによって突きつけられた問いのきっさきでもある。涙なしには観ることのできない名シーンであり、本作をつらぬく強靭な倫理のほつれ目として、観客に余韻と問いを残してくれる。はたしてこれは幸せなおわりかたなのかと。

次回予告における「さあて、どう戦い抜くかな?」の変遷も聴きのがすことのできないポイントだ。序盤の「お手並拝見」というような語りは、戦火がはげしくなりはじめるにつれて語気がつよめられ、人間爆弾が炸裂するに至ってはのどから血がにじみだしたような声音に変貌する。語り手が命を落としたのちには、「さあて、どう戦ってくれるかのう」と台詞を変えているのもにくい演出である。彼は勝平らの戦いを天国から見守っているのだ。このしかけはひとつの救いとして、観る者の胸を救う。

ネガティブなポイントを挙げるとすれば、もうちょっとキャラクターの魅力を押しだしてほしかった。とくにザンボット3パイロットでもある宇宙太と恵子の掘り下げがほとんどなく、エルガイムにおけるアムやキャオ、ダンバインにおけるマーベルやキーン、イデオンにおけるカーシャやベスらと比べると、どうしても見劣りがしてしまう。とはいえ、そんなものは些事であると目をつぶってしまえるほどのちからが、本作にはみなぎっている。

せんじつサンライズの公式チャンネルで無料配信がはじまったばかりなので、まだ追いつけます。ぜひ観てください。もういちどいいますが、傑作です。

*1:ラジオ番組「島本和彦のマンガチックにいこう!」で大山のぶ代本人がそのように言及していたそうである