復活のイデオン

まいにち更新するかはさておき、今日からぼちぼち再開してゆきます。書かないあいだに気づいたのは、ブログを書かないぶん、べつのところに何かを書こうとする意識が芽生えたことと、日々のささいな生活のなかに「これはブログに書こう」と思い立つ時間があることでした。書く意識をどのようにして、どこに向けるか、うまい比重を探ってゆきたいです。

富野由悠季『The IDEON 接触篇』『The IDEON 発動篇』をつづけて観ます。夜の4時過ぎから、シャワーを挟み、朝の7時半頃まで。接触篇。まず、「敵」から映すことに感動します。テレビ版ではオーソドクスに「味方」サイドの会話からスタートしていましたが、再編集され、映画となった本作では、ロゴ・ダウの移民星に到来したバッフ・クランの面々の会話から物語がはじまります。敵/味方の安易な二元性にゆさぶりをかける、効果的なしかけだと思いました。誤解に次ぐ誤解で瞬く間に戦闘がはじまり、そのままずっとたたかいつづけながら話を展開させていく冒頭19分とすこしのたたみかけは圧巻です。過度な圧縮のために説明台詞が目立ってしまう節もあるのですが、とはいえこのころがしぶりは目をみはってしまいます。

テレビシリーズとの相違としてとくに目を引いたのは、わたしのお気に入りのエピソードのひとつでもある「異星人を撃て」でのロッタとカララの対峙シーンの意味合いの変化でした。コスモの成長というアクロバティックな着地を見せたテレビ版に対して、映画では「あれが異星人の女なのか……立派じゃないか。おれたちと同じぐらいさ」とコスモに語らせ、異星人であるカララも俺たちと同じじゃないかと感銘を受ける場面に仕立て上げられています。ストーリー全体からコスモの成長譚的な一面はほどよく脱色され、異星人との「CONTACT」に重心を移したと言えるでしょう。ゆえに、カララがコスモに輸血するシーンや、カララがシェリルをはじめとするソロシップのクルーを庇うシーンなどが重要なものとして残され、コスモの乳離れ的な意味合いを含むであろうカミューラ・ランバンとの離別シーンなどは不要として削除されています。


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発動篇はとにかくアバンのヤバさに度肝を抜かれました。本作の印象的なヒロインのひとりであるキッチ・キッチンがなんの前触れもなく登場し、わずか数十秒でその首が画面を飛んでゆくのです。コスモはそれを見て叫びます。「バッフ・クランめ!!!」。少女とのはかない邂逅と離別をもとに、復讐心を滾らせる、なんともラディカルな導入です。そのままクレジット付きのオープニングに入り、そこでこれまた印象的な敵役であり、後半ではコスモたちの仲間にもなるギジェがあっけなく死んでいきます。この狂った速度が、劇場版のおもしろさのひとつであることはまちがいないでしょう。とはいえ、テレビシリーズでは描かれることのなかった結末を物語る本作は、前作に比してていねいにあゆみをすすめています。

イデオンに搭乗する際に、サンドイッチを食べながらデクがつぶやく「死ぬかもしれないのになんで食べてんだろ、おれ」や、バタバタと死んでいくクルーたちを目の当たりにし、自分よりも幼いアーシュラがその死を「お星さま」になったこととして納得するさまを見てカーシャの叫ぶ「みんな星になってしまえ!」といった、ここぞというときに放たれる台詞の数々にもしびれます。そう、彼ら彼女らはまだ少年少女なのです。年若いひとびとが戦火に身を投じ、傷つきながらも成長していく「ロボットアニメ」というフォーマットのよさは、こうした瞬間のかがやきに見いだせるのかもしれません。

決着のつけかたもきょうれつでした。やっぱり「海は物語の墓場」(もう何年も前の福間健二の詩のワークショップで、ある歌人[名前を失念してしまいました]が書いた詩句です)だということがよくわかります。げんじつに回帰させる方法も、物語と相まってひじょうに効果を成していると思いました。バッドエンドという前評判で観ていましたが、とっても開放的なハッピーエンドだと思います。かなしさという点でいえば、同じ富野作品でもダンバインやザンボットのほうがキツいように感じました。この系譜でいくならば、つぎはVガンダムを観たいのですがざんねんながらユーネクストにない!

ちなみに、テレビ版のほうがわたしは好きかもと思いました。いびつな映画は大好きですが、あつみには敵わないよね、みたいな、そんな考えがわたしのあたまに浮かび、ふわふわとただよっているのでした。