わたしの横でねむるあなたの歌が、隣のキッチンから聴こえはじめる(上)

 旅に読書はつきものだ。高速バスの出発まで、2時間半。わたしはターミナル横のちいさな書店のなかに、これから始まる夢の日々に向けて準備したひみつ道具がたくさんつまったキャリーバッグをひきひき立ち入り、目についた雑誌をかたっぱしからめくりはじめる。もうほとんど見えない指のうごきによってめくられた頁は宙を舞って、印字された文字までもがちりぢりにほどけていき、さまざまなタッチのイラストは、思い思いのうごきをしながら紙の上から飛びだしてゆく。その光景を天井ちかくに設置された監視カメラは黙って見つめ、店の奥では「じ」の字を鼻の奥に吸いこんだ店員が店中にひびきわたる音量で威勢のいいくしゃみをする。パラパラパラと超高速で羽撃く『群像』がいまわたしの手中にはあり、柳田國男サリンジャーをむすびつけるテキストがそこでダンスを踊っている。そうこうしていると時針はぐるりと回転技を決めており、わたしはもときた道を引き返して待合室のソファに腰を落ち着ける。マスクすがたの愛想のいい店員が座るチケットカウンターで千円札をくずし、すぐそばの自販機で600ml入りの麦茶を一本買う。ゴボゴボと喉を潤し、戯曲『珍しくよく喋ったり哀しいことも起こってないよ』を読む。今夜初演を迎える公演の、今夜会うひとが書き綴ったテキスト。その前景に、まぼろしのゴッチが「Arlight, Arlight」と叫ぶすがたが見えたところで、バス到着のアナウンスが鳴り、まばらな客たちとともに、わたしは乗車口へと歩みをすすめる。

 高速バスに乗るのは何年ぶりだろう。出発直後の交差点、座席から路肩に生えた草を見ていると、風にあおられて穂先が波打つさまが魚群のように目に映り、これは書き残しておこうとメモ帳に走り書きするわたしがいる。こうして外の風景を長々と見るのも、ひきこもり生活をしている身にとってはめずらしいことで、柄にもなく心がはずみまわっているのがわかる。しばらくすすんだのちに車窓に大写しになった丘では、遠景に白いビニルが鳥のようにたたずんでおり、その手前のなみなみと水をたたえた田圃では、整然と並んだ若苗が陽を受けて青いきらめきを放っている。わたしの目をとらえるこうした景観は、べつにだれの目にも必ずしも留まるものではないが、閉所で完結するほそぼそとした生活を送る身にとっては、その外にも、当然のことながらさまざまな営みがあるのだと雄弁に語ってくれる。かつての職場のある新宿に降り立って、フラッシュバックとPTSDのじっさいを身を以てしり、ターミナルの床を疾走するチャバネゴキブリに華々しくお出迎えされたところで、わたしは切れることなくつづいている自らの生の持続を感じ取り、甲州街道でコロナなんて嘘っぱちだと演説するヒスじみた女の声を、やけにやさしいものとして受け入れていた。

 いまのところ、生涯でわたしがもっとも通った書店であろう紀伊國屋書店新宿本店に数ヶ月ぶりに立ち寄り、モンスナックの閉店に思いを馳せながら、岸田将幸『風の領分』を買う。白い産毛の生えた表紙に穿たれた矩形のうつくしい、自身の棚に飾って置きたくなる装丁。いまいましき宣言による時短営業の所為で海外文学と詩歌の棚くらいしかまわれなかったが、滞在中に思想と文庫の棚を見にまた来るぞとかたく決意し、模索舎へと足をのばす。こんな状況でも(だからこそ)店をひらいてくれている、インディペンデントであることのつよさ。東京を去るすこし前、ここで大失敗と津村喬の本を買ったことを思いだす。棚のいちいちをなめるように見回りながら、ジョナス・メカス論集を手に取ったところでポケットが振動し、公演がおわった旨が同時にふたりの人物から通知される。このふたりに会うことこそ、本滞在のおおきな目的のひとつであり、このふたりのいる場には、べつの会いたいひとらも連れ立って待っている。手早く会計を済ませ、わたしは歌舞伎町へとキャリーを引きずって直進する。明かりの消えた店も多いが、行き交うひとびとの数は遥かに多く、みな口々になにかの歌を口ずさんでいる。聴いたことのないメロディーだが、もしや革命歌だろうか。マスクの下、わたしも鼻歌でユニゾンを決め、いかついねーちゃんやにーちゃんのあいだをくぐり抜けていく。

 わたしたちはめだかの前で再会した。抱擁のひとつやふたつでもくりひろげられるかと思っていたがそうはならず、友人たちはみな同様に疲れ切った顔で紫煙を細々と吐きだしている。どうもわたしがチケットを取りそこねた演劇がとてつもなくだめだったらしい。何を隠そう、暗い顔で煙草を十本も二十本もいちどに吸っている目の前の人物は、今日からはじまる公演のためにテキストを書き下ろした当の劇作家であり、べつの演出家の手によって自らの書いた台詞を目も当てられないほどギタギタにされてしまっては、誰しもこんな風になってしまうのだろうと納得させられる落胆ぶりだった。目の前に立ち並ぶ三人の男は、唇の隙間からだけではなく、鼻や耳や眼孔からすらももくもくと煙をはきだし、あたりはバルサンを焚いたあとのような白煙につつまれていたが、こんなご時世でもひらいている居酒屋はそんな煙幕を物ともせず、ゴキブリホイホイのように黒衣の男女を招き寄せては「3時間待チデス」と壊れたロボットのようにくりかえすだけだった。そう言えば、このちかくの通りにあったロボットレストランはさいきん閉業してしまったらしい。そのような「跡地」となってしまったビルがこの一角には無数にあり、ネオンの当たらないその狭間から、映写機が放つ一筋の光のようにしてあらわれたのがSさんだった。やがて彼の全身が誘導灯のように発光して、わたしたちの行先は照らしだされる。ゲバラのTシャツを着た気分で、わたしたちは路上のゴミを蹴っ飛ばしてすすんでいく。

 気づけばわたしたちはあん肝を口にはこんでいた。こいつが突き出しだと言わんばかりに、だし巻き卵も、ポテトフライも、刺身も一気にやってきたのにもかかわらず、酒は一向にやってこなかった。構わずわたしたちは空きっ腹につまみを放りこんだ。十の箸先が薄っぺらな皿の底をたたき、先ほどの芝居の話が矢のようにして煙といっしょに飛び交う。すでにわたしは酔っ払っていた。生身で友人たちとひとつのテーブルを囲み、文化の話をする。それをどれだけこの「田舎の生活」のなかで渇望したことだろうか? 「なめらかに澄んだ沢の水をためらうこともなく流し込」むことよりも、わたしはこうして何ひとつ澄んじゃいないカルチャーの話を両耳で感受することを望んでいる。200日にも渡ってつづけてきたラジオだって、言ってみればその代替物だろう。わたしは皆の話に耳を傾け、数時間前に想像したゴッチの幻影が打ち消されていくのを感覚する。あるいは、テキスト上に立ち上がっていたよくみしったAの身体が、まったく別様のものとして書き換えられていくのを自分のうちにみとめる。ふしぎだ、と思う。やがて、卓上を埋めていたつまみの皿がどれも空っぽになる頃、わたしにとっては約100日ぶりの酒がようやく配膳される。ワニの生き死によりもドラマチックな再会かはしらないが、待ってましたとわたしたちは200%のちからで乾杯し、破裂するジョッキとあたりいちめんに飛び散るお酒を見て、のどから血が噴きだすまでおおわらいする。血塗れの右手と、びしょびしょのTシャツ。ゴミを見る目のまわりの客と店員たち。これからわたしの、まばゆいばかりの東京ショートステイがはじまる。

     *

 新宿駅でAさんと別れ、それから高円寺に降り立って、ライヴおわりのMとTさんと改札前で遭遇して、駅近のてきとうな店に入り、ウーロンハイを頼んだところまではおぼえている。そこから記憶はタクシーの車窓から横断歩道に立つ友人たちをながめている光景になって、気づけば夜が明けていた。キスマークがどうとか、断片的な会話がこだましつづけているぼんやりあたまをもたげ、せっかく東京に来たのだから映画でも観に行こうかとスマホで上映作品をサーチし、ブレッソンの『田舎司祭の日記』が新宿でかかっているねと高揚するも、あいにく客席は満席だ。半分の座席しかつかえないって、なんてかなしいのかしら。高円寺で合流したYも含めて布団の上でグダグダしていると、すぐに昼下がりになって、わたしたちは小粋にそばを啜りに家をでる。てやんでえ、べらぼうめえと口々に濁音を泳がせながら、薬味といっしょに麺をたぐる。袋詰めされたサービス品の揚げ玉を片手に帰還し、またうだうだやっていると、我らがバンドのフロントマンNも坊主頭になってやってくる。ちいさな物件を借りてカレー屋をひらくのだと息巻く彼の手にはギターピックの代わりにカルダモンがにぎられ、スパイシーなフォークソングが空間をみたしていく。QさんやYもそこに混じりはじめて、2021年のラブソングが産声を上げそうになる。彼らの楽曲クリエイションに傍から茶々を入れ、家主の片割れHさんがバイトにでかけるのを見送れば、もう太陽は俯いている。ヨッシャヨッシャと涼しくなった風を浴びながら、みんなで銭湯に行って、汗を流したあとは近所のスーパーに買い出しに行く。なんて贅沢な旅のはじまりだろう。ここには予定を詰めないよろこびがある。つるすべお肌でカウンターの猫にあいさつし、軒先に貼りだされたポスターを見てみれば、そこには「自民党」の三文字。ノンポリ混じりの怒れる左翼四人衆がすぐさま誕生し、のれんの隙間から爆弾を放りこんで、木っ端微塵となった廃墟を背に、わたしたちは世界でいちばんすばらしい名前のつけられたスーパーマーケット「OKストア」まで向かう。

「爆弾魔まで肯定してくれるなんてゲキアツじゃないですか!」湯上りのビールで気分のよくなったわたしは店の前で絶叫し、左右から友人たちに諌められる。「この檸檬と爆弾交換しておきましょうよ!」ギャーギャーさわぐわたしを横目に、彼らは買い物かごを片手に店内をずんずんすすんでいく。わたしと目のあった店員はみな一様に顔の横でOKマークをつくってウインクを飛ばし、ああ、ここは本当になんでも肯定してくれる場所なんだと胸がいっぱいになる。「そういや、OKもArlightも同じような意味ですよね?」わたしの戯言にもはや友人たちは無視を決めこんでいるが、代わりにパックに詰められたオニタケがうなずくようにして陳列棚から落下するのが目に入った。「おまえ……」わたしの感動を横目に、買い物をおえたYとQさんは食材のつまったエコバックをふりまわし、あまりにも手持ち無沙汰なのでサッカー台の上で一対一のカバディをしようとしている。「これも買いましょうよ!」わたしがいくら叫んでもふたりは首を縦に振ってくれず、何度でもAlrightと歌うおじさんもすがたを見せず、たいていのことはOKサインで返してくれる店員でさえもが、指でバッテンをつくって眉間にしわを寄せるばかりで、わたしは駄々っ子のように床に横たわり、ふたりに引きずられて店をでるのだった。

 献立、ニラと豚肉のチヂミ、味噌マヨきゅうり、キスの南蛮漬け。夜にMさんも来訪し、山梨について思いを馳せる。


(続)