せいすうちゃん、巻添え死の回

富野由悠季伝説巨神イデオン』7-13話。主人公たちが搭乗するイデオンおよびソロシップの動力源であり、敵対する異星人バッフ・クランが追いもとめる「無限力」が、すなわち「愛」のちからであることが示唆される場面があり、おうおうそうこなくちゃ!とテンションがアガった。そんななか、展開されるのは信じる/信じないのドラマであり、その中心部にはバッフ・クランのお偉方の娘でありながら、ソロシップにその身を置くカララ・アジバの存在がある。13話のラスト、彼女をめぐって交わされる殺す殺さないのやりとりの濃さはとくに目を瞠るものがあった。クルーがまわりで見守るなか、自身に銃口を向ける民間人バンダ・ロッタの前に「お撃ちなさい」と自らの命を差しださんと歩みでるカララ。対して、肉親を異星人に殺されたにくしみをこめて引鉄をなんども引くロッタだが、弾はすべて外れ、銃弾は撃ち尽くされてしまう。「弾が、弾がなくなっちゃった。弾がなくなっちゃったよう……」と泣き崩れるロッタ。ここまではまあわかる、と観ていたのだが、その直後に主人公コスモの台詞をもってきて話を落とすさまにやられたのだった。「み、みんなが立派に見える……。カララも、ロッタも、ベスも、シェリルもだ……。悲しいぐらい、立派に見える」。そう、その光景を目撃した少年の感慨で物語に決着をつけるのである。唸らされる幕切れ! 前振りとしての「畑に生えた雑草は摘み取らなくちゃね」というロッタの台詞のキレ味もばつぐんである。ほか、「チャンスなのに!」と生身の人間をロボットで踏みつぶしそこねて悔しがるカーシャや、「子供二人のためにピンチになるなんて」とまだ年端もいかない子供の行動に憤るシェリルなど血気盛んな女たちが魅力的だ。

黒沢清『CURE』。気づいてみれば、実家にもどってきてからアニメ以外に邦画をぜんぜん観ておらず、この偏りはよくないぞと思ったので、観た。黒沢は好きな監督であるが、代表作とされる本作は未見だったのだ(同じく代表作であろう『回路』も観ていないのでこれもまたちかぢか観る)。さまざまな「恐怖の文法」が続々と登場してきて、なるほど黒沢のエッセンスが詰まった快作だと思った。とはいえ、わたしのなかではもっと好きな黒沢作品があるなとも思った。何が足りなかったのだろう?

恐怖の文法の内実。グレーな砂浜の引き画。さいしょは風景のみ。カットが変わり、砂浜に腰を下ろした青年が何かを見ている。カットが変わり、もとの砂浜。中心には何者かが立ち、こちらを見ている。遠すぎて顔は見えない。こちらに気づき、一歩一歩近づいてくる。もうここから怖かった。海という生と死を分け隔てる岸から、謎めいた男があらわれ、近寄ってくる。あるいは、役所広司演じる主人公・高部の家。「向こう側」の存在を暗示する曇りガラスのついたドア。その向こうにある「何も入っていない」乾燥機の駆動音。空虚さを強調するフレーミング。めちゃくちゃ怖い。あるいは、訳のわからない、つまりは手のこんだロケーション。やたら広い取調(?)室。遮断機のちかくにある家。その建物自体が怖すぎる廃病院。あるいは、唐突に挿入されるサブリミナルカット。げんじつと非げんじつが一挙に混濁する。あるいは、お得意の車中カットの不気味さ。黒沢映画における車の窓は、異界へとつながっている。むろん、カーテンも、どこかこことはちがう場所からの風によってその身をゆらめかせる。

処世術としての空虚。世界のみにくさときびしさに対して、自ら抑圧をかけ自身の内面を空虚とすることでなんとか生き延びていく現代のひとびと。彼/彼女らが、催眠者であり伝道者である間宮の手を借り、その空虚を見つめなおすことで、自らの欲望に気づき、凶行に走るという回路は魅力的だ。殺人を、抑圧の解放として描いているわけである。とくに「問題」のなさそうな人物たちに殺人を犯してもらうことによって、だれしもがそうなる可能性をもっていると映画は伝える。狂人/常人の境界を撃つという点で、ズラウスキーの作品群とも比較できそうだ。


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くじいた足をイデオンを観ながら冷やしていた。雪がそれなりに積もっており、痛い足をかばいながらも雪かきをせねばならないのかと暗澹たるきもちになる。ゆきみちをそろりそろりとゴミだしに行った際、雪かきをしている近所のひとに呼び止められ、ほら! あの家! 燃えてるよ! 火事だよ!といわれたのだが、指差す先にあったのは、除雪車のオレンジのランプが窓に反射しているさまで、たぶん大丈夫ですよ、と返事をした。