んやんやwatchingユー

アンジェイ・ズラウスキー『悪魔』。長編第2作。以下の文では物語の結末に触れるが、こうした映画ではそうしたスジなどはどうでもよくて、どんな話かしっていようがいまいが、ただ画を観ていればいいのではないかと思う。まずはついを引用する。

悪魔、修道院に幽閉された革命家ヤクプは、黒衣をまとった謎の男に解放され、ひとりの尼僧と故郷へ帰還する。同志に寝取られた恋人、発狂し自死した父、初対面の種違いの兄、生き別れた春を売る母……。夥しい死体と狂女のどよめきによって幕開けるこの醜く歪んだ世界を、「浄化」せんと剃刀が翳される

これまでに観てきた『ポゼッション』『COSMOS』『夜の第三部分』で展開されていた「狂った女の存在によって破滅する男の話」とは趣がすこし異なっていて、もちろん気の違った女はオープニングのシーンから叫びと震えをもって画面上にあらわれているのだけれども、本作で破滅する男=主人公ヤクプに最大の影響を与えるのは女ではなく、黒ずくめの謎めいた男である。ベルイマンの『第七の封印』における「死神」のような表象として、主人公の前になんどもあらわれるこの男は、ヤクプにすすむべき方向を指南し、いやらしいわらいを顔に浮かべながら、一本のちいさな剃刀を差しだす。「浄化」せよ、眼前にひろがる醜く歪んだ世界を、受け入れがたいこの現実を……。その唆しがあってか否か、家族や、友人、手を差し伸べてくる人々へ向かって躊躇なく刃を振りおろすヤクプだったが、結句その殺戮の涯で自己の行為に耐えられなくなり、自滅することとなる。

崩壊の道すじを整えるのは黒衣に身をつつんだ「男」ではあるが、主人公のそばにはつねに「女」が存在する。しかも一見正気じみた女が。主人公ヤクプとともに、謎の男の手によって修道院/精神病院から連れだされてくるシスターである。たまたま脱獄の現場にでくわしただけの彼女は、黒い男にいわれるがまま馬に乗せられ、ヤクプを支える女として、最後までその役目をまっとうする。故郷の自宅へともどってきたヤクプは、狂乱した父によって放火された屋根や壁が半壊した部屋を彼女にあてがうのだが、彼の外出中、そのいいつけを健気に守って部屋の片隅で寒さに縮こまっているさまはわらえてくるほどだ。そんな従順な存在として描かれる彼女が、ファルスを己の手で切断することによって本作にピリオドを打つのはなんとも感動的であり、象徴的である。これまでつねに男の手ににぎられ、数々の生命を奪った剃刀が、はじめて女の手におさまり、「浄化」を唆した男の「男」をギロチンする。負傷する男を介護する女のシーンにはじまり、奪いあいの対象としての女、男の慰みものとしての女、ドラマをつくるために死ぬ女……と、家父長制が支配する世界観(とはいえ、「父」はすでに死んでおり、「王」は女にうつつを抜かしている)のなかで翻ったこの反旗は、清々しく、痛快だ。

返り血に手を染めたシスターの上に重なるようにエンドクレジットが流れはじめ、画面外からは道化師のような男が登場し、彼女のまわりを円を描くように踊りだす。作中、狂人をその中心に置いて幾度もくりかえされる「死の舞踏」が、自らの「欲望」へと一歩踏みこんだシスターを祝福するように再演されるのだ。革命の同志に寝取られた妻も、娼館を司る母も、踊り手たちの取り囲む円の中心にその身を立たせ、周りが見えなくなるほどに──そう、母親はまさに目隠し状態で──恍惚となりながら、からだをくねらせ、痙攣させていた。映画の終焉を告げるこの奇妙な踊り子も、初登場時は娼館に見世物として連れてこられた狂人として、娼婦が踊りまぐわうステージの中心にいたことを思いだそう。女たちにされるがままだったこの男は、この最後の瞬間、自らステージに踊りでて、陽気にステップを踏んだ。正気と狂気の境目が反転し、物語は幕を閉じるのだ。さて、狂気とは、正気とは、そのふたつを分けへだてるものとは、いったいなんなのだろうか?


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冒頭、キムチーズもちを食べながら観ていた。夕飯は挽肉・ゴボウ・長ネギ・あぶらげを、塩・カイエンペパー・生姜・黒酢・柑橘酢・醤油で炒めたもの。キムチーズもつくっておく。キムチとクリームチーズの和え物だ。キャベツのたらこマヨ炒めも母の手によってつくられ、食す。それぞれうまし。

他者性の話を前回したが、今日もあたらしいメッセージがとどいていて、ありがたいきもちになる。ほなみさんを招いたときに話した「他力」の思想である。仏教もひきこもり期間のうちに手をだしたい分野だが、読書の余裕はなさそうで、せめてそういうドキュメンタリーでも観るかという心持ちではある。