わたしはツツジ!
プリンタとインクを注文した。時宜を見計らって、、とやっていたら価格の底を過ぎて折り返しがはじまり、これ以上待っていてもジリジリ値上がるのを待つだけになりそうだぞと思い切ったのだった。収入のあてもないのにどでかい買い物をするのは心臓にわるい。今月はあと印刷用紙も買わなくちゃならない。
炊飯掃除機を済ませ、料金を払込にコンビニにゆく。そう、クレカの限度額がショボすぎるがために、、ていうかペイジーで領収書でないってどういうことやねん! 利便のためのものなのでは!? 途中、半分凍った水田にカモや白鳥が飛来しているのを見、こんな近場にも!とたのしいきもちになって写真や動画を撮影する。日が照って雪がとけている。帰宅し、ラジオにそなえてぐったりと寝る。
夜、のっそりと起き、肉を焼く。塩胡椒をバッとかけ、バターとニンニクで焼きつける。途中、赤ワインを加え、肉をとりだす。フライパンにのこった汁に醤油とレモン汁を足して、ソースとする。ほんとうはシルパンチョをつくりたかったのだが、みな腹ぺこ状態であり、手間を惜しんだ。おまえがつくれや!という怒りは飲みこむ。
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ラジオ。どうやら90分前後がちょうどよさそうだぞという実感を得る。事前のストーリーラインをなぞるのではなくて、渦中でむすびつきをつかまえていくスタイルがよろしいという確信も得た。コメントがあるとわたしだけではなく、放送自体の充実度もぜんぜんちがうとも思った。しやすい場をつくりあげてゆきたい。というか、リスナーというコミュニティのありかたってけっこうおもしろいのではないか。おなじ番組のリスナーであるというだけで生まれる連帯感・友愛のきもち。ロマンチックにすぎる?
夜はインターネットぶらぶら。yumi zoumaの「a long walk home for parted lovers」でフィーチャーされていたダーシャ・ネクラソヴァdasha nekrasovaの長編第一作が、今年のベルリン映画祭のエンカウンターズ部門(カンヌでいう「ある視点」部門のようなもの、2020年に新設された)にノミネートされており、テンションがアガった。俳優として活動しているのはしっていたが、まさか監督として映画祭にあらわれるとは!
ダーシャは上記のMVでその存在をしってからずっとインスタをフォローしており、このニュースも彼女のインスタグラムからしったのだった。興奮して投稿したついも貼っておく。
初期ユミゾウマのMVで鮮烈なダンスを魅せていた詩人でありジンスタであり役者であり自らのポッドキャストにジジェクやバノンまでをもゲストとして呼ぶdirtbag leftかつsailor socialismの急先鋒ダーシャ・ネクラソヴァが今年のベルリン映画祭に監督としてデビュー作をひっさげて登場するのめちゃアツい
『The Scary of Sixty-First』と題された作品は、ジャッロ映画とペドフィリアの大富豪ジェフリー・エプスタインの死にインスパイアされたサイコセクシュアルスリラーだそう。ちょう観たい
このdirtbag left(「汚えクズ左翼」とでも直訳できるが、もっとこなれた訳語があろう)について、日本語環境で言及しているついや記事は2021.2.11時点でひとつも見当たらなかったので*1、wikipediaなんかを参考にチンケな一里塚をここにつくっておくと、2010年代中期から「チャポ・トラップ・ハウスChapo Trap House」というポッドキャストを中心に波及した政治的スタイルのひとつで、ダーシャがアンナ・カチヤンAnna Khachiyan(クリストファー・ラッシュ、カミール・パーリア、マーク・フィッシャー、ミシェル・ウエルベックらに影響を受けた文化批評家)とやっているポッドキャストレッド・スケアRed Scare(赤狩り)もその旗手のひとつとして受け止められている。性格としては、反ファシズム、反保守、反中道、反自由主義的なイデオロギーを標榜するとともに、ポリコレ、不平等、礼節といったものへの反感と、富裕層への反対と再分配経済政策への支持を主張する、バーニー・サンダースシンパ、というように定義づけられるだろう。
dirtbag leftのそもそもの震源としては、当時25歳のハーバード大生だったネイサン・ジェームス・ロビンソンNathan James Robinsonによって2015年に創刊されたオピニオン誌『Current Affair』に掲載された「The Necessity of Political Vulgarit」(政治的下品さの必要性)と題されたエッセイの存在があり、それはチャポ・トラップ・ハウスの創設者の一人でもあるアンバー・アリー(?)・フロストAmber A'Lee Frostによって、以下のような文言を含むかたちで発表された。
Vulgarity is the language of the people, and so it should be among the grammars of the left, just as it has been historically, to wield righteously against the corrupt and the powerful.
拙訳:下品さは民衆の言葉であり、権力者や腐敗した人間に対して正義を行使するために、そして歴史的にそうであったように、左翼の文法に含まれるべきだろう。
つまりは、優等生的「リベラル」に反発をおぼえながら、より「ラディカル」に接近した左翼、という感じだろうか。ユーモアとアイロニー、自虐を兼ね備えた「おもしろ主義」的なところもあって、日本でいえば外山恒一やだめ連、素人の乱的なものにもちかしいのかもしれないが、どうなのだろう(むしろ日本の運動体が先駆形というべきか)。ラジオを言語の障壁を感じずにたのしめるほどのリスニング力はわたしにはないので、そのあたりは英語がもっと得意なひとびとに判断をゆだねたい。日本でもオルタナ右翼やQアノンといった右サイドの政治運動については紹介されるが、こうした左サイドのうごきに関してももっと読めるような環境であればよいなと思う。
*1:調べなおしたら「ダートバッグ左派」という語のでてくる記事があった。有料記事なので途中までしか読めないけれど:https://courrier.jp/news/archives/228312/