とんがり派の泣き虫に告ぐ

メインとして豚肉も焼いた。ガーリックソテー、醤油味。せんじつのこんにゃくの経験を活かしてダイヤモンドカットをキメた。この切り方が作用しているのか、焼きかたの問題なのか、それとも下準備のおかげなのか何なのかしらないが、ひとくち目が信じられないほどのやわらかさで衝撃を受けた。冷めると多少はかたくなった。えのきは昆布茶と山椒で食す。滋味深い。

岡田利規WSの7を観る。名詞的想像力/動詞的想像力という言葉が思い浮かんだ。言葉を話す、台詞をいうという意識ではなく、想像を抱えた状態で舞台に立つことによって、豊かな「演劇」を立ち上げることが目指されているわけだが、その想像のありかたとして、先に挙げた2種の差異が見てとれたのであった。前者は、モノ自体(ベッド、窓、クローゼットetc.)をそこに幻視し、後者は動作(寝転ぶ、鳥が飛ぶ、服をハンガーにかけるetc.)をそこに映しだす。この方向性の異なりは、それをもとにふるまう役者にとっても、その身体を観る観客にとっても、おおきなちがいを生むのではないか。わたしは動詞的な想像力のほうが強度がある、と思った。ただそれは単独としてちからを発揮するというよりは、名詞的な想像力をより強固にするものとして考えられるのではないか。

ALTSLUMのラジオを聴きながら麻雀を打つ。はじめての回ということもあってか、喋りが噛みあってない感じがたのしい。「なるほど」で話が深まることなくおわるのである。会話ってむつかしいよね、、コメントに意識をはたらかせると対話者に意識がはたらかないというわたしも犯した失敗(?)も見えた気がする。途中まで聴き、24時をまわったころに布団に入る。8時間ほど寝、昨日のあまりの肉と卵を焼き、スープといっしょに食す。確定申告いつやるか?と思いながらラジオをまた聴く。


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鶏ももとブロッコリのハニーマスタード炒めをつくる。翌週のラジオのために、すが秀実『タイム・スリップの断崖で』の2011年3月以降の頁をさいごまで読む。ここでくりかえし述べられているのはとにもかくにも「資本主義」を俎上に載せろということだ。つまりは、階級意識をもてということでもある。反(脱)原発運動においてはそこが抜け落ちているがために、たとえ彼らの主張が認められたとしても片手落ちの結果になるに過ぎないことが予見される。一国内で原発を廃止したところで、資本の要請による原発の輸出は止まらず、そんな反原発は欺瞞に過ぎないではないかということだ。この資本の問題に、問に付されることのない日米同盟の存在や、安易に礼賛される「民主主義」もかさねあわされ、時勢に応じたロジカルな言説がいくつも収録されている。読みおえたあとは冒頭に立ちもどり、また頁をすすめる。本連載が掲載されていた『en-taxi』は2011年から終刊に至るまで継続して買っていた雑誌だった。小ぶりの判型に、中綴じのたたずまいをもった、雑雑した雰囲気のある雑誌で、年3回という刊行ペースも好きだった。

誌面で読んでいたときにはわたしはまだ左翼としての自覚がなく、むつかしいことが書かれているなという印象をもつに過ぎなかったのだが、いまこうして読んでみると、それなりに理解できている自分がおり、よかったですね、となる。多少は成長してきたんだなという実感が生まれる。

スープに味噌とごま油を足し、夕飯。マスタードソースがしみたブロッコリの甘さ。さいきん食後の腹のおもさが気になる。米を控えようと思った。