欠けたひとつやふたつのおもいで

空間をひらかなくては。あつまる場。あつまれる場。身体の集うスポット。声のかさなる地点。

hbol.jp
ダイアログ再開の折には、ここで書かれている「埴谷邸」のような場所になれればよいと思う。場について考えるとき、「サロン」という語がネオリベのクソどもの巣穴となったいま、その言葉をもちいることはしないが、木村蒹葭堂(10年ほど前、中村真一郎の著作でその名をしったが、読んではいない)の名がわたしのあたまに浮かんでくるのだった。

「反労働」のことを考えながらクラウドソーシングのサイトに掲載するプロフィール文を書いていると、あたまがおかしくなりそう。言行不一致の極み。不誠実だと思う。世のなかの左翼の大学教員をはじめとする高給取りたちは、自らのその立場に死にたくなったりしないのだろうか。

夕食、ムースーロー。木耳、豚肉、卵、玉ねぎ。うまし! 以前だったらぜったいビールをあけていたが、びっくりするくらい飲みたいきもちにならないのである。

はぎわら水雨子『水槽の中の魚たち』。映像で。規律(ルール)逸脱(ゲーム)。卒業制作展という発表の場にふさわしい題材だと思った。敷かれたレールの、すでにある枠組みからの脱出を図るさまは、どんな分野における逃走劇であろうと痛快である。そこに「舞台」という演劇に欠くことのできないフレームをかさねあわせることによって、作品がさらにコンセプチュアルなものとして結晶化していた。おわりかたなんて寺山的でさえあった。そんなものはまったく意識していないのだろうけれども、『CUBE』感のある舞台美術が目にたのしく、じっさいに会場で観たときの見えかたを想像するに、さらによいのだろうなと思った。鏡面としてあるその壁には、観客である「わたし」が映りこむはずで、観ている最中そこに囚われたわたしの存在が、きっとせりだしてくるであろうから。

衣装もマームのようなニュートラル感がありつつも、ファンシーの皮をかぶった近未来SF≒ディストピアの雰囲気をまとっていてよかった。言語遊戯もテキストの特徴としてあって、とりわけ「しりとり創世記」とでも呼べそうなかけあいが抜きんでていた。「しりとり」→「利用される重力によって木から落ちる果実」→「強くて黒い毛むくじゃらな哺乳類」→「いい音色を鳴らす金属の楽器」とつづいていくやりとりが、単純なあそびであるはずのしりとりにもうひとつ思考の層を噛ませ、作品の多重性の隠喩としてわたしたちの聴覚をみたす。ままごと直系(のように見えた)のリズム発語に「なつかしさ」をおぼえてしまったのがおもしろかった。


f:id:seimeikatsudou:20210207063730p:plain
288


夜、語法のコレオグラフィの3つめをつくる。途中、PRのグラフィックをいんすたに投げたり、はぎわらさんの演劇を観たりしながら、深夜3時頃に完成する。ひと晩置いて、とくに気になる箇所がなければあっぷする。以前にも触れたかもしれないが、このシリーズとABMGを今月の半ばには5つずつつくって、ひとつの冊子のかたちにしたいのであった。残り半分。ちんたらしすぎである。いや、できることならちんたらしていたい。ちんたらしながら暮らしてゆきたい。