まあるいナイフを突き立てる

夜更けまでベッドに起きて転がっていると咳の前兆があらわれる。長い時間起きていると肺の負担が限界を迎えるのだろうか。

小雨の降るなか市民税と保険料を払いにでかけ、すぐ数日後にあるアドビの更新料のことを考えて精神がおわる。にっちもさっちもいかない。貧のきわまり。悪意の一票を入れに期日前投票も済ます。道中、服に付着した強靭な蜘蛛の糸と格闘する。年金と奨学金の書類も郵送する。あたらしいしごとの話もくる。かろうじて命脈をつないでいる。おれはいったいなにをやっているのかと毎晩思う。

今千秋『映画 ハピネスチャージプリキュア! 人形の国バレリーナ』(2014)。ミニマムな要素を手堅くまとめた佳作。いきなりふなっしーがでてきて、そうそうプリキュアはこういう謎コラボがあるんだよなと過去作(『映画 Yes!プリキュア5 鏡の国のミラクル大冒険!』)でのザ・たっちのあばれぶりを思いだした。キャラのかわいさを押しだした愛らしい(あざとい?)演出が目立ち、それと相乗するように序盤でいつか自分のもとにやってくるであろう白馬の王子様を妄想しつつ「ラブストーリーは女の子の夢」と語るひめは大丈夫か?と思ったが、結句、待つのではなく自分から探しにいくマインドに変遷していったので安心(?)した。マリン的な崩し絵が似合うキャラクターだった。

理不尽に脚がうごかなくなってしまったバレリーナ・つぐみと、「がんばれば誰だって幸せに」と語るめぐみの対比が効いていて、その「理不尽」が敵であるブラック・ファングの手によって為されていたことが明かされるに至っては、「己の欲望のために他者を犠牲にする構図」がブラック・ファングからつぐみへ、つぐみからぬいぐるみ、あるいはプリキュアたちへという二段構えになり、さらには冒頭の保育園の幼児たちに人形劇を披露するシーンの象徴性が明らかになる。あやつり糸をにぎった者の意のままにあやつられる人形たち……。つぐみが「わたしのための国」という言葉をつかって形容する人形の国は、ドキプリの思い出の国とも共通して〈居心地のよい場所〉として設定されており、そこに囚われている自己に打ち克つことが、ドラマの中心に据えられている。

志水淳児『映画 プリキュアオールスターズ 春のカーニバル♪』(2015)。形式の勝利。映画としてどうこうというよりも、「プリキュアオールスターズ」というフォーマットでの新しい試みとして、ひじょうに成功していると思った。志水淳児への信頼がいやます。実写EDの衝撃や、ゲスト声優であるオリエンタルラジオの出張りぶり、単独の作品で観たときの物語展開の物足りなさなど、思わしくない点はあるのだが、それでも、ミュージカル形式(というよりもMステ形式?)で歌とダンスにフィーチャーするという思い切ったスタイルだけで突破していると思った。敵の語りまでもが歌劇風に演出されている周到ぶりである。まず「妖精たちへの感謝を伝える」という目的の設定が愉快だし、その達成のために「プリキュアたちに歌って踊らせる」展開をもってくる、しかもそれだけで1本の映画に仕立て上げようとするのは尋常ではない。発明である。

ところが、巷では不評作のようで、黒沢清の『クリーピー』を観たときのことを思いだした。とはいえ、本作の場合は「ファンムービー」の要素がつよいので、文句をいいたくなるきもちもわかる気がする。はじめてのプリキュア映画が本作、あるいは2-3本しか観ていない状態では、わたしも上記のような受け入れかたはできなかったかもしれない。だが、プリキュア映画史を考える上で避けることのできない重要作であることはまちがいないだろう。画面の前の観客に話しかけるメタ演出をミラクルライトシーン以外で用いたり、定番の気合顔ではなく呆け顔でキメ技を放ったりと、細部で発揮される新たなテクニックもたのしい。

夜、豆乳生姜餃子鍋、ニラ・長ねぎ・キャベツ・牛肉入り。はんぺん塩胡椒炒め。はんぺんはバター醤油やチーズなどを加えて味をつけることが多いが、仙台の名店「かぜの子」のたこ焼きを想起しながら塩胡椒で焼いてみた。


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ひとが「すぐれた構成」というとき、そこで「正解」とされる構成はすべて似たかたちをしているのではないか?という疑問。秩序だち、巧くつながりがむすばれ、無駄が省かれたものだけが「よい」とされている風潮に抗いたい。雑然とした、余計なものが至るところからはみだしている混沌としたコンストラクションだって「すぐれた構成」のひとつのモデルとして考えることができるはずだ。これは詩手帖の選評で文月悠光に自作が言及されたときからずっと考えていることだ(結論はともかくその指摘はただしい!とも思った)。構成力の尺度がひとつしかない空気をぶちこわしたい。

夜、そせじとニラ入りオムレツ、トマトと糸寒天のスープ。

精神の不調がまずい。結果がない。生のおわり。この明確な不安は、わたしの筆をすすませるちからにもなる。死にたくない。考えたくない。考えろ。死ね。