夢のなかで叱りつける

グラスに注がれたビールを飲みくだすとおおよそ三ヶ月ぶりのアルコールにからだが拒絶反応を示し、尋常でないかゆみが上半身をうごめきまわった。この文を書いているだけで、あたまがかゆくなってくる気さえする。しかしビールはうまい。害があろうが、ビールは好きだ。ほろ酔い気分でQさんの制作途中のニューソングスを生で聴き、エモーショナルな気分を抱いたまま初日はねむりについた。

昨晩東京に着いて、真っ先に思ったのが「小諸そばに行きたい」ということだった。その欲望をみたすために、今朝は富士そばにてミニかき揚げ丼セットを食した。そばも丼も、小諸のほうが好きだと思った。揚げ物がつづいている。

志水淳児『映画 トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』(2021)。映画館でプリキュアるのははじめてのこと。終映間際とはいえ土日だったので、まばらな家族連れとともに観る(大友もいた)。家をでるまえに「プリキュア観てきます!」といったら「テロリストとまちがわれるんじゃないの」とQさんにいわれたが、じっさい、肩身の狭さがある。家族で過ごす平穏な土曜の午後を脅かしていたらすみません!

何より衝撃を受けたのは、変身シーンで涙をながしているのである。おれがである。二次元の少女たちがプリキュアに変身していくさまをながめているおれのまなこから、しらずしらずのうちにあついものがこぼれているのである。劇場の音響と大画面という環境、映画用にアレンジされた長大で壮大な変身BGM、メインであるトロプリメンバーにかぎらずゲスト参加のハトキャメンバーまでもが全員ソロかつほぼフルで流れる(すべてあわせてなんと10分ちかくもある! 映画全体の7分の1が変身シーン! 狂っている!)という構成。それらが渾然一体となって全身に投射された結果、気がつけば泣いていたのである。ずいぶん遠いところまできたなと思った。30年ちかい年月を生きてきて、わたしは映画館でプリキュアの変身シーンを観てボロ泣きするヤバ・オタクになっていたのである。どう考えてもまっとうなにんげんではない。なにかを踏みはずしたにんげんである。わるいとはつゆにも思っていないが。

オープニングの流れがすさまじくよかった。雪の王国シャンティアに向かうまでにおこなわれるじゃんけんや席替えといった場面での細やかな芝居と所作が、それぞれのキャラクターをしっかりと立ち上げていた。このていねいさには雪空のともだちにおけるほのかの通話中の芝居を想起した。また、本編ではなかなか見ることのできない、あすか先輩の愛らしさがそこかしこにちりばめられていたのもよかった。これはテレビでの放送をながらく観てきているからこそ味わえる感慨かもしれない。演出という点でいえば、ローラが怒って部屋をでていくシーンもよかった。足を強く鳴らして去っていくすがたを、鳥瞰視点である程度のながさをもってとらえている。そのささやかなまなざしの持続が、彼女のいらだちを画面に充満させる役割を果たしていた。

ラスト、「歌」が映画の重大なピースとなって流れるが、その抑制された演出がひじょうに印象的だった。歌のまえによくうごく戦闘シーンがあることもあって、「棒立ち」や「口パク」と揶揄する言説を観賞後にいくつも目にしたが、では、この場面をアグレッシブなカメラワークや、情感たっぷりに歌いきる超作画で魅せることがほんとうに最適な手法なのだろうか? わたしにはそう思えなかった。ここで観客に伝えられんとしているメッセージは、曲でも、歌でも、ましてやうごきでもなく、「詞」であり、「言葉の意味」である。そこに観客の意識を集中させるための演出として、この作法は唯一の正解ではないにしても、相応しいもののひとつだろう。言葉をまっすぐに伝える際には、余計な装飾は不要である。

上映後、同じ列に座っていた母親が自らの娘に対して「ママ感動してすこし泣いちゃった」と語りかけていてとてもよかった。むろん、わたしも泣いていた。変身シーンの比ではない涙液でマスクをぐっしょり濡らしていた。コロナの影響もあってプリキュア映画恒例の応援シーンはカットされているのだが、上映中に喋る幼い子供たちの存在はかけがえのない「鑑賞体験」を形づくるものとしてそこにあった。ともに観ることの感動。黒沢清「大勢の人と一緒に観る場」こそが「映画」なのだといっていた。映画館補正もあるだろうが、これまで観てきたなかでのマイベストプリキュア映画となった。


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上映後はパンフを買いもとめようとスタッフに声をかけるがざんねんながら完売とのこと。グッズもすこししかなかったので足早に劇場をあとにし、恵比寿へ。ルース・ファン・ビーク展をPOSTで観る。ファウンドフォトを用いて作品をつくっている、好きな作家の日本初の個展。もっていない本が売っているといいなと思っていたが、予約販売の過去作が1種あるのみだったので何も買わずにでる。販売されていたポスターにはあまり心を惹かれなかった。来年(記事が公開されているころには今年)はわたしもこういうアプローチで作品をつくってみっかな、と思った。グラフィックではなくアートピースという意識。フライヤーをつくる際のメインヴィジュアルを単独で作品化するようなイメージ。

のち、東京都美術館で日本の新進作家vol.18「記憶は地に沁み、風を越え」展とプリピクテ「FIRE/火」展。どちらもあまりおもしろくなかった。前者の山元彩香の「作為の写真」にはこころうごく瞬間があったが、掲示してあったステートメントにそこからの乖離を感じて興醒めしてしまった。後者はアワードのノミネート作品が展示される形式で、コンセプトではなくテーマ形式の展示はわるい意味で散開してしまうなと思った。

有隣堂をふらついたあとはOGRE YOU ASSHOLE恵比寿リキッドルーム。ソーシャルディスタンス仕様になってからははじめてのライヴハウス、だいぶ見やすさがある、が、見やすさ優先で立ち位置を決めたところ、ずっとしゃべりつづける中年女ふたりのうしろに位置づけてしまう。その当てつけのように、アラフォーになって独身で、夫もいなくて、と未来もライヴホリックのままの自身(?)を語る20代なかばのおんな、サイコーだった。ひきこもっていては出会えない、生々しいコミュニケーションの苛烈さがあった。当てこすられているほうからの「わたしたちがその年代であるぞ」という暗なる返答もあってよかった。こうしたやりとりは、生で接しなければなかなか出会えない。

なくした→フェンスのある家、とホラー感のある幕開けに、オウガはホラーコンセプトのアルバムをつくったらいいのではないかと思った。内臓と鼓膜で感覚する恐怖のライヴ・パフォーマンス。寝つけないを挟んで、今回のライヴの山場であろう、ムダがないって素晴らしいから素敵な予感への移行にはオーガズムを得た。イチローの「ほぼイキかけました」とか、ドライオーガズムってこれだよねというきもちになる。兎にも角にも「パーフェクト・ラバーズ・イン・ザ・パーフェクト・シティ」という英題のすばらしさ。ところどころで叫びちらしている観客がいたが、歓声を上げてしまうきもち、ひじょうにわかる。朝も相変わらずすごかった。「もどってくる」感動。これは初日にQさんと話していたことでもある。同じものが、まったく別様のものとしてたちあらわれること。クイーンズ・ギャンビットを観たときに思った「再登場」のドラマにも通ずる。今回のアレンジは歌にはもどらず、曲で完結していた。それはそれでむずむずと内腑がいななくような快感があった。思わず拳が挙がった。肉体がうごいた。オウガを観るのは2019年末のリキッド以来で、新曲も期待していたのだが、それは叶わなかった。