ゆゆしいloveyou

ベル・フックスの訃報を目にし、声がでた。2020年にエトセトラブックスから復刊された『フェミニズムはみんなのもの』はフェミニズム入門にぴったりなので題にある通りみんなに読んでほしい、とまで書いて、たとえば書店や雑誌の「追悼特集」って資本主義がひとの死をがっつりと取りこんでいる例でもあるのだよなといまさらながら思う。坊さんはともかく、おれは葬儀屋がむかつくよ。「互助会」とかいう詐欺まがいの収奪システム……。

明日やろう明日やろうで先のばししてきた荷造りにようやくとりかかる。冬場は服がかさばるのでつらい。候補をだすだけだし、当日朝のええいままよ!にあとは任せる。

ニコラス・ウィンディング・レフン『プッシャー3』(2005)。「父」の話をしている! しかもすでに衰えた「老父」の話を! 「そして父になる」2のあとに本作をもってくるぜつぼう感。レフンへの信頼がいやます。ユーネクストにあるだけ観ようと思う。若きギャング「キング・(コング・)オブ・コペンハーゲン」に代表される新たな世代の波に相対する、老化のために、上着を自分だけで羽織ることもままならない身体をもった、デンマークドラッグ界のゴッドファーザー・ミロ。誕生日を迎える娘への愛に生きようとしながら、自身の立つ場所と、これまでそこに築いてきた自らのおもさが、その血の通った生のありかたをゆるさない。この世界においては、1と2に影をのばしていた「ママ」はもはや不在である。祭のおわりをつたえる何も載っていないテーブルと、空のプールという空虚さをもって幕切れるラストシーンを埋め得るものは、まさにこの「母」ではないか? 観た折にはここをむすびつけることはしなかったが、このくだりを書いていて、そんなことを思った。本シリーズは、21世紀の「男」を考える上で、ひじょうに重要なトリロジーである。

冒頭、薬物依存症者の集会において参加者がタバコをスパスパ吸っているのがよかった。Aの依存を考える際には、Bは考えなくともいいのだ! むろん、そんなわけはない。こういうふざけたユーモアは、ミロの料理を食べた部下たちが腹を壊し、クソを漏らす場面にもあらわれていて、暗く血濡れたシーンの合間にあたたかみを感じることができる。そしてその暴力側のピークである後半に配された人体解体ショー! 屠殺スタイルでふたつの身体を捌いていくさまがそれなりの照明下で記録されており、これまでの2作に見られなかった直接性があった。なかでも、グルグルと回転しながら排水口に吸いこまれていく人間の臓物がえげつないヴィジュアルとして刻印されていた。いっしょに祖母も観ていた(!)のだが、くだりのシーンの最中は目を背けており、観おえたあとに「きもちわるい映画だったね」といっていた。それにしてもミロ(ズラッコ・ブリッチ)の声がマジでいい。声だけで信用に足る役者なのがわかる。イライラシーンで流れる炸裂ノイズギターは、これまでのシリーズでの「ダサロック」演出とは一線を画していた。


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夜、ヨーグルト漬けポークのスパイス炒め。ハリッサ、にんにく、パプリカパウダー、ナツメグ。玉ねぎ、レッドキドニー入り。うまい。

明日ここを発つので食後にチキンカレーもつくっておく。赤缶をベースに、にんにく、しょうが、フェヌグリーク、フェンネルシード、ローレルと、クミン・コリアンダー・カルダモン・クローブナツメグ・カイエンペパーをパウダーで。具は鶏、玉ねぎ、にんじんのみ。ほか、トマト缶、ヨーグルト、バター、塩胡椒醤油コンソメ。玉ねぎは刃を入れる回数が少ないほうがうまみがでる、との記述を読み、それなりのおおきさのまま炒める。味は明日の朝確認する。

ここまで、旅立つまえに書いた(プッシャー3の感想以外)。ここからしばらくは思いだしながら東京での日々が書かれる。カレーは家をでるまえに食べた。おいしかった。荷造りはいそいでやった所為でタオルを入れそびれたが、それ以外はなんとかなった。バスは空いていた。ひきこもりの生活を送っているので、バスターミナルでひさしぶりにまったくの「他者」たちと同じ空間に居合わせ、おうおうというきもちになった。とつぜんひとりで語りだし、傘の先でベンチを執拗にたたくにんげんの存在感。逆説的に、東京で生活をしていると不感症になる、と思った。これはビフォのいっていた話に通ずる。いくつものアナウンスと効果音と会話が折りかさなり、それを(自らには関係の)ないものとしてふるまうひとびと。キャリーをエスカレータでたおしてしまうという出来事が滞在中あったが、思いかえせばその応対にもまちがいなく「東京」という環境が作用していた。ふたたびこの地で棲まう際の身体性に考えがおよぶ。

今回もお出迎えはなかった。キャリーをガラガラ引いてあと数日で閉店するてんやで冬野菜の天丼を食べ、ブックファーストで本を物色したあと、だれもいない宿泊地に向かった。荷ほどきし、携えてきた酒と銘菓をひっぱりだしたところで、家主のかたわれであるQさんが玄関の扉をひらいた。居候者が家主を迎えるへんてこな構図がおもしろかった。その手には酒の入ったビニール袋がぶら下がっており、さっそくわたしたちは杯を交わした。