区画化された愛(うるさい)

思っていたよりもライヴははやくおわり、Yくんと新宿で飲む。会社員をしていたころに足をはこんでいた中華の店。空いていた。さいきん酒量がやばいというわたしとは真逆の話をきく。こういう話をきくと、日常的には酒を飲まなくなったのは「よかった」のか?と思わされる。わたしたちが刊行している『たくさんの的』の影響でさいきんプリキュアの映画を途中まで観たというが、話を聞いていても作品の判別がつかず、おのれのにわかぶりに直面することとなる。プリキュアマスターへの道は遠い。店をでたあとはゲーセンに立ち寄り、YくんがUFOキャッチャーをプレイするすがたをながめる。操作されたアームは毎回正確に標的をキャッチするのだが、アームが最頂部に到達すると、かならずミッフィーちゃんはもといた場所に落下するのだった。

わかれたあとはHさん、Qさん、A、Nさん、初対面のHさんと飲む。隣に居合わせたおっさんがうるさい。生牡蠣がうまい。東京の風はつめたい。

HさんもQさんも、わたしがめざめる頃にはいないはずだったが、ふたりともきちんとそこにいた。いっしょに帰ってきたはずのNさんのすがただけがなかった。Hさんを見送ったあと、わたしもでかけた。武蔵引田というしらぬ駅にゆくと、亜細亜大学があった。目的は期間限定でイオンに設置されたプリキュアプリティストアminiで、ラメールのビクトリーなキーホルダーを入手することだった。が、あいにく品切れていた。はるばるきたので同種のパパイアと、キメ技を放つマリンを買った。ブラインドタイプの缶バッチもあがめた。購買心を煽る「限定」の二文字。もと来た道をひきかえし、朝からお茶しか入れていない空腹を抱えて東京駅のプリティストアに向かった。店の場所だけ確認し、斑鳩でラーメンを食べた。九段下にあったときはおいしかった記憶があるが、あまり好みでない味になっていた。過剰な油っぽさ、しつこさにみたされていた。あと10歳若かったら好きだったかもしれない。

はじめての訪問となるプリティストアは想像以上にこぢんまりとしており、なおかつ品切れ商品も多かったがために何を買うか迷った。さんざ悩んだのち、トロプリのハロウィンブロマイドとハトキャのビッグタオルを買って店をでた。時間に余裕があったので八重洲ブックセンターもぷらぷらした。ほんとうは丸善に行くはずだったが、東京駅がひさびさすぎて方位をまちがえたのだった。時間がギリになり、ちょうどモニョチタさんの展示をしていたvinyltokyoは訪問に失敗。阿佐ヶ谷へ。劇場までの道のりにあるブックオフキラキラ☆プリキュアアラモードのオフィシャルコンプリートブックを発見したのですかさず購入する。800円。刊行されているものは本編を観ていない作品ばかりなのだが、手をだしてしまったからには全種コンプしたい。


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アートスペースプロットにて排気口/菊地穂波企画公演『金曜日から』。おもしろかった。ディティールの強度。語を引き受ける脚力のちからづよさ。ブリッジとしても、トランポリンとしても、跳ねた言葉を受け止めるうしろの言葉がこれまでになく冴えた切れ味をみせていた。パロネタを扱う手つきも洗練されていたように思う。しらなくてもなにひとつ問題がないスムーズさがあった(しっていたらなおおもしろい)。至るところに技術の積みかさねを感じた。

動作もおもしろかった。言葉をしぼりだしながらダブルパチンコをする波世側まる。ないものをあるものとして、あるいは途中でないと気づいているのにも関わらず、あると信じてしまう空気椅子のアクション。どん詰まりの無残さが香る「超能力」研究の寓意として、あるいは「演劇」という所作のメタファーとして、単なるギャグにしか見えない動作が、切実なものとして異彩を放っていた。圧倒的なくだらなさが悲哀を帯びて胸を打つものに変化していくのは、排気口の十八番であり、そのドラマの核心でもある。

この構図はラストにおいてもすばらしい結実を見せていた。暗転後に流れるラジオ音声によって、遠藤の友人であり、ププ美のラジオのヘビーリスナーである男がフィリピン武術・カリの師範代になることが告げられるが、それがまさしく「余暇」の可能性を示しており、わたしは衝撃を受けたのだった。「ないもの(-超能力)をあると証明する」仕事に人生のすべてを注いでいたかおりは、「あるもの(-子供と夫)をないもの」として扱ってきたがゆえに、作中では破滅的な状態で終演を迎える。所属していた共同体が解散し、気がついてみればさまざまなものを失っていた彼女が、夢うつつのなかでまだ見ぬ未来への希望にみちあふれていたかつての光景を幻視する場面(ないものがある!)は、ものがなしくも感動的だ。だが、そこで幕切れとしないのが排気口である。照明が落とされ、おふざけのように流れるププ美のラジオの最終回が伝えるのは、先に触れた「カリの師範代」のくだりである。タイトルの『金曜日から』に着目してみれば、その先には土曜日と日曜日という休日(-余暇)の存在が見いだすことができ、かおりの「明日-未来」もそこに重ねることができる(舞台の上はつねに「金曜日」である)。つまり、余暇を用いて「カリの師範代」となった男は、あり得たかもしれないかおりのすがたであり、あるいはこの先に待っている「余暇」の可能性をほのかにしらせる使者でもあるのだ。劇中、遠藤の何度も反復される「痛え」と、その身体に増え続ける包帯がばかばかしさを増幅させていた「カリ」は、こうしてかけがえのないかがやきを放つものに変貌する。これは「超能力」ではないが、「ないものをあるようにふるまう」演劇が為せる技であり、「想像力」が生みだすひとつの達成である。さまざまなものを「信じている」ひとたちがたくさん登場する本作だが、わたしもまた、そのちからを信じたいと思わせられる作品だった。

役者にも触れておくと、かおりを演じていた井上文華が場全体の重しとして機能していて、作品の構造とも相まってひじょうに印象的だった。彼女の夫役である平岡唯君の声も、まるでディックのムードオルガンのような情感をつくりだしていてこころにのこった。ペペの妹役を務めていた刺腹由紀の登場シーンはグッと空間をねじ曲げるような圧があり、『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』のパラパラをしながらおどりでてくる小野カズマを思いだした。菅野姉妹のていねいな顔の芝居にも目を奪われたし、遠藤を演じる広野健至の隙のなさも全体を支える屋台骨としてほがらかにひかっていた。

観劇後、同じ回を観ていたTさんとRくんと劇場前で立ち話。ふたりとも年単位ぶりの再会なので話が弾む。打ち上げではいくどもフライヤーを褒められ、やる気がたくわえられた。二次会の途中で抜け、ぐっすりねむる。

めざめ、ちょうど寝床で起きあがったQさんにあいさつし、トイレで用を足していると三次会(?)に行っていたHさんが帰ってくる。こうして三者が同じタイミングで会することにシンクロニシティを感じる。超能力である。シャワーを浴び、ル・シネマへ向かう。

OとAさんと濱口竜介『偶然と想像』(2021)を観る。本編について触れるまえに上映前の出来事について書く。今回の客がそうであったわけではないが、これまでの来訪の経験からル・シネマの客層は金をもったジジババという印象がつよく、上映前のスクリーンにはそれを証明するような予告ばかりが流れていたのだが、趣味のいいブルジョワたちに向けられたの数々のそれらの末尾にラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)4k版が置かれていることがめちゃくちゃおもしろかった。いや、ぜったいちがうやろとわらってしまった。が、そんなのんきな話ではなく、これは文化の収奪であるのかもしれない。ハイファッションの世界におけるそれと同様に、資本の暴力がそこには見いだせる。

映画はさほどだった。つまらないわけではない。『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観ていない身で言うのもあれなのだが、『寝ても覚めても』(2018)以降、それ以前に撮られた作品の方が好みだなと思うことが続いている。と言っても、『PASSION』(2008)、『親密さ』(2012)、『ハッピーアワー』(2015)の3本しか観ていないのだが。

1話目「魔法(よりもっと不確か)」がいちばん好きだった。タクシー車内での会話をとらえた一連のシーンの怖さ。運転手のまなざしを序盤にちらとインサートすることによって、「画面の外」が画面に対して圧力をかける。シーンの長さとその内容も相まって、一体どこに連れて行かれるのかとドキドキした。その後に展開される元恋人同士のグサグサとした対話もきょうれつだった。テキストがめちゃくちゃつよいというのは3話すべてから感じたことで、がゆえに、あまりに長くそれが連続するのであたまから言葉が抜け落ちていく場面もあった。観ている最中はそうは思わなかったが、いまこれを書いていて、ベルイマンのダイアローグのありかたをちょっと思いだした。『秋のソナタ』(1978)における母娘の包丁を刺しあうような会話。観おわったときにはエリック・ロメールの名前が浮かんでいた。とにかく話しっぱなしの3話だった。もっといろいろ思ったはずだが、観てから時間が経ってしまったのと、観おわったあとに3人で話したのでもういいかという感じである。ズームアップ演出、ラブ!